遠浅の死海。

文字の海に溺れて死にたい。幸福の国。

品格ある灰色。

僕の直感は、そう評した。

カニエ・ナハさんの詩集、【用意された食卓】を
読んでの感想です。
 

f:id:picoplus:20160515211754p:plain

 
あてもなく乗り込んだ、土曜日の普通電車内で読みました。

・・・。
 
詩との、関わり方は難しい。

油断すると、すぐ眠くなる。

かといって、眼力込めて読むものでもない。ような気もする。

起承転結があるわけでもなく、何か知識を得たり、教養を深めるためでもない。

ただ、詩人という人間の心象風景の断片を見て、(あー。と感動するくらいだ。

だから、本というカタチで存在するより、Twitterのように“ぽんっ”と可視化できる気軽いカタチの方が、関わり方としては理にかなっているのかもしれない。
 
仰々しく、有り難がるよりも。
重々しく、腰を据えて向き合うよりも。
もっと日常のBGMレベルまで馴染ませられないものか。
 
それがいいのか。
ただしいのか。
ただしいとかかんがえちゃってだいじょーぶなのか。

さぁ、わからない。

では何故、人は言葉を本にするのか。
そして何故、人は本を買い、言葉を読むのか。
それはやはり、『実体として触れたいから』だと思う。

言葉は見せ方で受け取り方が大きく変わる。誰が言うのか。何時言うのか。何処でいうのか。何の言語を使うのか。フォントは、行間は、文字の色は、大きさは。そして、受け手がどのような状態であるのか。細分化していけば、見せ方のパターンは無限に在る。発信者としては、見せる以上は「魅せたい」と思うのは当然で、でも、そこは完璧にはコントロールはできない。人間が持つ能力と評価が対等になることは稀だ。それは分かってる。それでも独り善がりにならないように、でも出来るだけ自分を出したい。そんな思考の摩擦の末に、本という選択肢が存在する。こんな小難しく考えなくてもいいかもしれないけど、モノづくりに関わると否が応でも考えてしまう。難儀だ。
 
何が言いたいのか分からない。
僕は今、とても眠い。
 
詩集の感想を何も書いてませんが、タイトルが全てです。
最果タヒさんとか、好きな人は好きだと思います。
よろしくどうぞ。
ーー 追伸 ーー

僕の処女作となる詩集【℉】も順調に出来上がりつつあります。
僕が詩人と名乗る以前の作品も多数掲載しております。
勢い重視で圧力高めの作品に仕上がる予定です。

 

お楽しみにー*

I AM A HERO.(R15+)

映画、アイアムアヒーローを観てきました。

 

何が歯痒いって、今のこの興奮を伝えられるだけの文章力が僕にないことですよ。

 

(以下、感想)

 

いや、

なんていうか、

もう、

ほんと、

これ、

すごいよ、

ね、

うん、

ていうか、

うわー、

なんだろ、

あああああああああ、

 

ヤバい。



ほら、僕の文章力ではこれが限界です。

でも、書きたい衝動が収まらないので駄文ですが綴ります。

まず、何からどう書けばいいでしょうか。


ーーー。


アイアムアヒーローの原作ファンの方で、もし「まだ観てない」という人は『いいから黙って映画観てこい』もうブログ読まなくていい、はい、今すぐ、いってらっしゃい!(おわり)

で、アイアムアヒーローを知らない人は続きをどうぞ。

 

ーーー。

 

アイアムアヒーロー】は、花沢健吾さんの漫画が原作です。ストーリーの内容は、主人公の鈴木英雄(将来に希望が持てない35歳のマンガ家アシスタント。クレー射撃が趣味で散弾銃を所持している)の目線で描かれる世界の崩壊劇。ありふれた何気ない日常が、音を立てながら超絶リアルに壊れていきます。

 

簡単に言うと【ゾンビ映画(漫画)】なんですけど、バイオハザードとかをイメージしてたら度肝抜かれます。作品内で奴らは「ZQN(ゾキュン)」と呼ばれていて、ゾンビ作品の基本的なルールである「ゾンビは人間に噛み付く」「噛まれたら感染する」「頭部を完全に破壊しないと倒せない」などは踏襲されていますが、他のゾンビ作品と決定的に違うのは『どこまでもリアル(日常的)であること』と『主人公がたまたま銃が扱えるだけの普通のおじさんであること』です。

 

バイオハザードとかは、主人公が格好いいじゃないですか。体格も良くて、運動神経も抜群で、絶対に死ななそうじゃないですか。でもアイアムアヒーローは、いつ死んでもおかしくない主人公なんです。主人公だから死なないとは思うんですけど、それでも頻繁に(死ぬんじゃない?!)って思わされます。だからこそ、見る側の僕ら(普通の人間)が感情移入・状況移入しやすい。それがこの作品の面白いところです。

 

ここまで書いて思ったんですけど。正直、映画観るよりも先に漫画の方を読んでほしいですね。1巻だけでいいので。1巻の”あのシーン”の衝撃に耐えられる人は映画館へ、耐えられない人は観ないことをオススメします。

 

僕は1巻の衝撃に一度は打ちのめされ、続きを読むまでに3ヶ月かかりました。あの頃はまだ”耐性”が弱かったので。それでも、今は19巻(最新巻)まで読み進めてる熱烈なファンになりました。面白いですよー。人によってはトラウマになる可能性もありますが、面白いですよー。

 

ーーー。

 

さて、映画の話に入ります。

 

まず、はじめに。【実写化】というものハードルの高さは、もう皆さんご存知ですよね。今まで自分の好きな作品(漫画・小説)が実写化(アニメ化)されて「全然違う!!!」と、憤った経験のある方は少なくないと思います。また、憤るまで行かなくても、「うーん。。まぁ、これはこれでアリか」程度のクオリティの作品が多いのではないかと思います。今回のアイアムアヒーローも、原作が原作なだけに期待よりも不安が大きかったです。でも実際に映画を観たら、そんな期待も不安も全部まとめて『フッ飛ぶ』くらい大満足の出来でした。

 

そもそも実写化において何よりも重要なのが「誰が演じるか」ですよね。作品の満足度は、ここで8割決まると言っても過言ではないでしょう。でもキャストが発表された時、僕は安心しました。主人公が大泉洋さん。これは、もう流石のキャスティングです。すぐに見えました。スクリーンの中で動く鈴木英雄が。ダブルヒロインのキャストも有村架純さんと長澤まさみさんという、なかなかの力の入れ様。まぁ原作ファンからすると(ちょっと美人すぎるんじゃないか?)とは思いましたが、スクリーン映えするという点では完璧な女優さん方です。そして、映画の中では期待を遥かに超える名演技。やっぱり実力派俳優さんたちはすごい。すごい。

 

そして、もう一つ。というか、主人公やヒロインよりも重要な役。この作品の”肝”である”ZQN”のクオリティについてですが。これが、もうね。

 

恐怖。恐怖。恐怖。です。

 

特殊メイクやCGを「これでもか!」と使い、基本の”動き”を各俳優さんが演じる形でしたが。これが、もうね。全員が完全なるZQNに変貌していました。めっちゃ怖い。めっちゃリアル。めっちゃ噛み付く。でも、だからめっちゃ面白い!この実写化に携わった方々、全員の原作に対する”愛”が伝わってきました。一切の手抜きなしです。

 

キャラクターもストーリーも、相当なレベルで原作に忠実に創られています。映画という短い時間での表現も、世界が崩壊していくスピードと上手くリンクしていてゾクゾクしました。絶対【続編】ありますよ、コレ。今回のを第1章とするならば、少なくとも第3章まではあります。(というか、やってください、おねがいします)

 

原作の方は、いよいよ佳境に入ってきました。死んだと思ってた人が生きていたり、絶対死なないと思ってた人があっさり死んだり、世界はすでに99%以上崩壊していて、そんな中でまだ生きている人たちは何を考え、どう動くのか。そしてこの作品に、花沢さんがどんなラストを描くのか。めちゃくちゃ楽しみです。それまでは死ねない。

 

あまりネタバレになるようなことは書きたくないので、この辺にしておこうかと思います。「グロテスクな表現・ホラー描写への耐性がある」と自覚している方は、どうぞアイアムアヒーローの世界へ行ってらっしゃい。ただしその後、すべての人間が怖く見えたり、肉料理が食べられなくなったり、悪夢にうなされたりするなどの後遺症を患っても、すべて自己責任ということで。

 

ーーー。

 

P.S.

君は、ヒーローになれるか。

 

www.iamahero-movie.com

 

 

君は自分の心臓の一部になってしまう音楽と出逢ったことがあるか?


僕はある。

タワーレコード難波店5F、
イベントスペースにて。

振り絞るように歌われた歌を、
噛み締めるように全身で聴いた。

バンド名は、tacica

01.サイロ
02.夜明け前
03.発熱
04.Butterfly Lock
05.DAN

約30分間のミニライブ。

それでも瞬きが見えるくらいの近距離で触れた彼らの音楽は、例え一曲、いやワンフレーズだけでも聴く価値は十二分にあった。

ライブとか、人が密集する空間が苦手だから基本的には行かないけど、それでもtacicaの音楽だけは“生”で感じたい。

前にも書いたけど、多分これからも何度も書くけど。彼らの音楽は墓場まで持っていきたいんだ。秘密とかじゃなくて、死ぬまで聴き続けて、死んだ後も聴いていたいと思える音楽。

聴き続けて5年くらい経つけど、一曲たりとも中途半端なものはないし、何度聴いても何度聴いても何度聴いても、まるで褪せない。

これはtacicaを聴く方なら解る感覚だと思うけど、例えば日常、例えば水、例えば空気。当たり前にあるから、それに飽きるとかはない。tacicaの音楽は、音楽でありながら限りなくソレに近い。

歌詞、声、メロディ。あと、説明できない何か。それらを毎回微妙に配分を変えながら曲が創られているという感じ。添加物、着色料、不純物など一切なし。完全無添加のオーガニックミュージック。

正直これ以上の熱量はこの世界にはないと思う。音楽が人間に及ぼす影響はこの世で最強レベルだよ、絶対。

 

最後に。

 

まだ心臓まで届く音楽に出逢っていない人に、いつか良い出逢いがありますように。そして既に出逢っている人は、その音楽を死んでも聴き続けられますように。

今は、そんな気持ちです。

君は優しいから病人になりたがる。

優しい人。

 

優しいねって、結構かんたんに云われる。

僕は、ぜんぜん優しくなんかないのに。

 

それなのに、何故だか僕は。

生まれた時から、優しい人だ。

 

みんなの目が節穴なのか。

僕の目がガラクタなのか。

 

どっちなのかは分からないけど。

どっちなのかを分かる必要もないけれど。

 

優しいって何ですか?

優しいって何ですか?

 

大事な疑問なので2回言いました。

 

とりあえず。

 

優しい人として生きてきて、

これといって得したことも損したこともないように思う。

 

ただ「そういう人」なだけで。

 

目の前で転んだ子どもに(大丈夫?)って声をかけたり。

忘れ物をした友達未満のクラスメイトに教科書を見せてあげたり。

家族が疲れている時に家事を代わりにしてあげたり。

 

別に考えてやっているわけでも

何か見返りが欲しいわけでも

誰に優しいって思われたいわけでも

 

ない。

 

その日、その時々の気分で。

まー、なんとなく。

あくびをする程度の感覚でやってるだけです。

 

だから逆に。

逆に訊くけど。

 

「みんなは優しくないんですか?」

 

優しい人に「優しいね」って云えるのに。

みんなは優しい人ではないんですか?

 

そんなはずはないですよね。

 

僕は誰かに「優しいね」って云わないけれど。

云う必要もないくらい当たり前の事実だから。

 

 

僕は数年前に病気になった。

最近流行りのメンタル系のやつ。

 

今は普通にしてるけど、

何かの拍子で終わってた可能性もある。

 

だから何だって話だけど。

まぁ要は、当時の僕は。

 

ここだけの話。

 

「病人になりたかったんだ」、、と思う。

 

優しい人。

 

云われ続けると結構しんどい。

 

それまでは無自覚だったんだけど。

 

20年間、僕に降り積もった「優しいね」が、

雪崩のように僕をのみこんだ。

 

そう、あの病気。

例えるなら雪の中。

真っ暗で、息苦しくて、感覚という感覚が消えていく。

 

半年間は、仮死状態が続いた。

 

あの場所から、どうやって戻ってこれたのかは。

記憶がほとんどない、ない、ない。

 

それ以前の記憶も、結構つぶれた。

 

今だからこそ、「あの時は」って話せるけど。

経験しなくてもいい経験だったようにも思う。

 

でも、優しい僕が、選んだ道だ。

 

何か、誰かに、伝えたかったのだろうか、僕は。

何も、誰も、変わらなかったけれど。

 

伝わったこと、変わったことがあるとすれば。

 

僕自身の内側だけに、「優しくなくても大丈夫」って。

心に通う血が変わった気がする。

 

それから気がついたら詩を書いていて。

 

これは自分から自分へのメッセージなのかもしれないな。

なんて、今、すごく適当に思った。

 

 

優しい人。

 

みんなの目には見えないけれど。

意外と、こんな感じだったりもします。

 

不幸自慢とかじゃないし、

教訓めいた何かでもない。

 

ただ5月は、春はいろいろ騒つくから。

 

こういう場所に、

こういう風に、

こういう僕で。

 

言葉を書いてみたくなるだけ。

 

花粉もだいぶ減ってきたし、

テンションは高くないけど、

僕は僕なりに元気です。

 

嫌なことも、最近はあんまりないし。

良いことは、最近はどんどん増えてきたし。

 

波は、人並みにありますけどね。

みんな、それぞれ。

普通に過ごせる日が、たくさんあればいいと思います。

 

最初にタイトルだけ思いついて。

思いつくまま書いてみたけど。

葉桜みたいなブログになった。

 

こんな感じで終わります。

 

今は不思議と、優しい気分。

相乗効果と相性は未知数(三章編成)

《第一章》
4月末日。
5年以上振りに徹夜をした日。
僕は生まれて初めて【合コン】という儀式に参加してきた。きっかけは僕が広告代理店で働いていた頃のクライアント(TMさん27歳)が誘ってくれたからだ。正直、TMさんとはプライベートでは会ったこともないし、そんな誘いをいただけるほど仲良くはないと思っていた。悪い人ではないけれど。まぁ、TMさんからの誘いに限らず。僕はそういう勢いしかない若者が集う儀式的なイベントを極力避けてきた。そんな僕が何故に今回は参加したのか。別に暇だったからとか彼女が欲しいからだとか、そういった明確な理由はない。
ただ、なんとなく、気が向いたから。
それだけの理由で参加することにした。
それ以上でも以下でもない。
大事な事ほど”なんとなく”を信じて道を選ぶのが僕だ。
僕はそういう人間だ。
で、今回参加した合コンの詳細はこちら。
■□■□■□■□■□■□■□■□■□
男女比:6vs6
場所:串カツ屋(ちょっとお洒落)
会費:3500円
メンバー:下記
♂:TM, TK, TP, TT, KM, UKA(僕)
♀:MO, SYK, RR, SH, MK, HAL
■□■□■□■□■□■□■□■□■□
とりあえず結果から言うと。

やっぱりダメでした。

何がダメって、女性陣は予想以上にギャルギャルしいし、会話は内容よりノリを重視するし、「男は女を無条件でエスコートするものでしょ?」と自分の下品さや無知を棚に上げてお姫様を気取っているし。男性陣に関しては、僕以外は全員友達同士なので、見えない仲間意識バリアを張ってるし、せめてTMさんチョットはフォローしてよ!と思いながら全然助けてくれないし、一人孤独に戦うしかなく、まるで動物園の猿の檻の中に入り込んでしまったような錯覚を覚えた。
別にそういう方々の”存在”を「ダメでした」と言うわけではなくて、僕には扱いきれない種類の人間だから【ダメだ】という話で、まぁ相性の問題です。そもそもTMさんの人間性から集まる人種のタイプは大方予想できたし、こうなる事を覚悟の上で参加したんですけどね。ただ実際、年齢も前後1〜2歳しか変わらないのに「ここまで居心地が悪くなることがあるのか!」と驚きました。経験してみないと分からないことはこの現実にはまだまだ沢山あるのかもしれない。そのことを再認識できただけでも、僕としては参加した意味があったんだと、無理やり意義を見つけ出す僕は偉い。
約3時間の食事が終わった後、女性の半分はそそくさと帰宅。残った女性3名と男性6名でボーリングをすることになった。まず選択肢がカラオケかボーリングの2択って。やはり人間は年齢ではなく”属性”で分けられるべきだなぁと思った。永遠に10代から抜け出せない人間というのは、僕が想像しているよりずっと多いのかもしれない。とにかく、無理やり大学生に気分を戻して9名でボーリング場へ移動。
このボーリングで、僕は貴重な体験をすることになる。
 
◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
 
《第二章》
まず、はじめに。
僕はボーリングが嫌いだ。
器械体操や格闘技などの体一つで行うスポーツは得意だけど、野球やサッカー、バスケットボールなどの球技全般が昔から苦手で、だからボーリングも嫌い。それに加えて、同年代の(僕の周りだけかもしれないが)男同士でするボーリングは何故か、必ずと言って良いほど”金を賭ける”という謎の風習があり必然的に僕は損をすることが多いから余計に嫌い。
今回は女性がいるので賭けはないと思っていたが、女性陣は1ゲームだけ適当に投げて帰宅。(何しに来たんだよ..)で、男6人だけが残された。僕は、(ここで解散かな?でももう終電も行っちゃったしどっかの漫画喫茶にでも入って始発でも待つか)と考えていたら突如『よっっしゃああああああ!!!今から朝まで投げまくるでーーーーーーーー!!!!!!フォオオオオーーーーーーーーーーー!!!!!!!』と、一番お調子者のTKが叫んだ。これは比喩ではなく、そこそこうるさいボーリング上全体に響き渡るほどの大声で、文字どおり、彼は叫んだ。GW中なので、人も結構いたのに。まさに猿。そして有無を言わさず【男だけの朝までエンドレスボーリング大会】が始まった。開始時刻は深夜1時。始発は朝6時頃だから、つまり5時間ほど投げ続けることになった。僕にとっては拷問以外のなにものでもない。自分で行くと決めて参加した結果だから仕方がないけれど。
僕の周りの男たちを含め、基本的に猿たちはボーリングが上手い。そして1ゲーム目で、こいつらも相当なレベルだと確信した。ちなみに僕の平均的なスコアは80〜100くらい。普通にガターも出すし、スペアやストライクなど取れたら相当ラッキーだ。一方猿たちは、普通にカーブとか投げるし、スペアもストライクも取れない方が珍しいくらいのレベル。スコアは全員150〜170くらい。こんな連中に僕が太刀打ちできるはずはない。しかも、当然のように賭けも発生した。しかし個人戦ではなく、3対3のチーム戦形式だ。チーム戦なら負けたチームが勝ったチームに100円とかなので、負けても一人当たりのダメージは低い。僕の実力は最初のゲームでバレてるので、少し気をつかってくれたのかもしれない。
そしていよいよ、長い夜が始まった。
ここまできたらもうやるしかない。負けた分は今日の会費だと思うことにしようと腹をくくり、僕は全神経を込めて投げ続けた。すると、どうだろう。始まって数ゲームはスコアが100に届くか届かないか程度だった僕が、深夜3時を過ぎたあたりから段々と普通に100以上のスコアを出せるようになってきた。まぁ、慣れもあると思う。今までも、何度か投げてるうちに感覚を覚えてきて120くらいまでなら出せるポテンシャルは僕にはある。だから今回もとりあえずその辺を目指して投げていた。しかし、どういうわけか。深夜4時を過ぎた頃、眠気も疲れも溜まってきた頃なのに、スコアが120を平気で超え始めたのだ。他の連中に混ざっても大差ないほどに、僕はボーリングが上手くなっていた。ここまでのレベルに来たことは未だかつて一度もない。徐々に猿たちも僕の成長ぶりに驚き始め、知らず知らずに仲良くなっていた。彼らも僕と同じかそれ以上のハイスコアを出し続ける。僕はそれに必死で追いつこうとする。もはや何が目的で今日合コンに来たのかわからなくなっていた。そんな中、深夜5時、というか朝の5時頃。そろそろ大会も終盤にさしかかってきた時に、ついに僕は覚醒した。何と、スコアが【200】を超えたのだ。
「!!!」
ボーリングをしたことのある人なら、このスコアがどれくらいのものなのかだいたい分かるとは思うが。とにかく、僕が一生出すことはないだろうと思っていたレベルのスコアが出たのだ。さすがの僕も声をあげた。柄にもなく、全員とハイタッチを交わした。あんなに嫌いだったボーリングで、こんなに高揚感を得ることができたのは本物の奇跡。僕は(あの”なんとなく”は、この瞬間につながっていたんだ)と思った。結局、賭けもそこまで損をすることもなく、まぁいい感じで大会は終了した。
 
◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
 
《第三章》
人間関係は化学反応だ。
個人で出来ることなど高が知れている。だから人は人と出会い、言葉を交わし、未知に触れ、人と人とは相乗効果で大きく飛躍する。しかし、そのような良い反応が起こる事は少ない。現実は、人に会うたび自分が侵食され、気持ちを揺らぶされ、疲労感だけが残る事の方が多い。少なくとも、僕はそうだ。だから、個人でいる方を選びがち。そんな僕がそれでも会う人は、良い反応が起こりそうな匂いのする人だけ。20歳くらいから、僕はそうして生きてきた。間違ってるとも思わない。でも、100%正しいわけではないのかもしれない。
今回のボーリングで200を超えるハイスコアをたたき出せたのは、紛れもなく一緒にプレーをしたやつらのおかげだ。自分にとって敵わないと思うほどの、できれば避けたい(帰りたい)と思うほどの試練の中に自らを自らで置くことで成し得た奇跡だ。だから、まだ会ったことのない人と会うことは大事だ。でも、大事なんだけど、それは、分かってるけど、勇気を出して飛び込んでも、ほとんどの場合、打ちのめされて終了ということが多いのもまた事実。でも、数%。数%だけは、その試練に打ち勝ち、自分の能力を高めることができる。それが今回、僕自身によって証明された。
最初は噛み合わあい化学反応だった。それでも、じっくりじっくり時間と体力と精神力をかけて挑み続ける。すると、どこかで反応が変わる瞬間が来る、こともある。高校時代、アメリカンフットボーラーだった頃は、この感じを試合中に何度も味わっていた。この場でしか味わえない緊張感。一つのミスが引き起こす敗北という名の血の凍るようなプレッシャー。毎回逃げ出したい気分になって、それでも僕は試合に挑んだ。なぜなら僕のチームメイトは強かったし、頼もしかったから。小心者の僕を、強き者へと引き上げてくれるから。そう、あの感じ。試合の間だけだけど、僕は個人では到達できない高みまで昇ることができた。あの体験は、今の僕の強さに大きく影響を及ぼしている。
今まで生きてきて、一回でも”強き自分”に出会ったことが有るか無いか。
それが、人の”地の強さ”を決めているのだと、僕は思う。
個人で出来ることは高が知れている。それでも、できるだけ個人で生きていきたいと思う人もいる。そんな僕のような人間が、若いうち、時間と体力と精神力のあるうちにすべきことは、人(未知)と会い続けることなのかもしれない。そうすれば、何度かに一回は、また高みへ昇る体験ができるかもしれない。その場限りの飛翔だとしても、その瞬間に出会った”強き自分”は、自らの無意識の中に確実に蓄積されていく。確実に。そして知らず知らず、自分の血となり肉となる。自らを支える”地面”になる。僕らが高くジャンプしたり、早く走ったり、またゆっくりと安心して歩くためには強固な地面が必要だ。特に「個人で進もう」と決意した人には欠かせない要素だ。だから僕は、地を固める。今のままでも問題はないが、もっと高く飛ぶために。もっと早く走るために。もっと確実な一歩を歩くために。自ら雨を降らし、風を吹かせ、耕し、また整える。その繰り返しが未来そのものになる日まで。
 

表現者の苦悩の果てとは。

表現者の苦悩の果てとは。

 

僕(斗掻ウカ)は、TwitterTumblrとnoteでのみ「詩人です」と名乗っている。その理由は、やはりまだ「怖い」からだ。音楽や絵などに比べて、詩はクリエイティブの世界でまだまだ市民権を得ていないと感じる。しかも、名乗った時に変な印象を持たれやすい。(確証はないが)それは「誰でもやろうと思えばすぐできる(できそう)」というイメージや、いわゆる”ナルシスト感”が強いからではないだろうかと思う。あとは、音楽や絵などは”ながら”で消費できるのに対し、詩は一旦”読む”という作業に集中しなければならない。すごく短い本を読むのと同じだ。だから、まず本や活字を読む習慣のない人には1編すらも届かない。無理矢理届けたところで、そこに感動は生まれない。かといって、身内で盛り上がっているだけでは今以上の認知は得られない。つまり創作物としての価値がどんどん収束していく。このような連鎖が、詩が今ひとつパッとしない理由だと僕は考える。

 

実際、詩は文字さえ書ければ誰でも作れる。今すぐ作れる。俳句や短歌のように文字制限もなければ、季語を入れたり等のルールもない。思ったことを”それっぽく”言葉にすればいい。非常にインスタントでフリーダムな創作だ。まぁ、こだわれば何処までも時間とエネルギーを消費するのは他の創作と変わらないが。とりあえず”カタチ”にするまでのハードルが低い。そこが詩の弱い面でもあり、面白い点なんだけど。

 

また、詩は「上手い or 下手い」が判りにくい。そして「良い or 悪い」も判りにくい。詩は、どんな創作物よりも「好き or 嫌い」だけで判断できるし、そのシンプルさが市民権が得られない現状に繋がっているのかもしれない。努力(見せかけでも労力と時間とお金をかけた感じ)を完成品よりも評価されるのは納得がいかないけど、それでもやはり、人間の心理・真理的にはイージーカム・イージーゴー。作品に対して、その人がどれくらいの努力を費やしたのかが分かることは市民権を得る上では重要だ。これは一般論であり消費者の立場からの意見であるが、実際カタチにした時に見る人の直感に訴えるのはその努力の部分だ。これはもう、しょうがない。

 

僕は詩を書き始めてまだ間もないが、詩に限らず自分の好きな事でお金を稼ぎたいという思いはずっとある。(人間皆そうだと思うが)その為に、今現在【詩集】を創っていたり、【note】で投げ銭スタイルの投稿をしたりしている。まだまだ始まったばかりなので、収入らしい収入はないが可能性は意外と感じている。だから今はトライアンドエラー・アンドトライを繰り返すのみ。繰り返していく中で、とりあえず最初の目標にしているのがお小遣い程度(月に2〜3万)の収入を得ること。収入を目標にしている理由は、公の場(ネットの外の世界)で「詩人です」と口にしている人は、「詩でお金をもらっている人」以外では見たことがないから。だから僕にとって、いや一般的に職業として名乗るには、1円でもいいから自分の作品が売れる必要がある。ほんと、1円でもいいから。現時点で僕の詩集を予約していただいてる方が数名いらっしゃいますが、収入としてはまだ0円。その”目に見える報酬”があるかないかで、公の場に躍り出れるかどうかが決まる。少なくとも、僕はそう思っている。

  

その場所にたどり着くまでに何れくらいの労力を要するのか、何れくらいの時間が必要なのか、何れくらいの資金があればいいのか。そんなことは純粋な好奇心の前では関係ない。関係ないが、そう言い切れるほど純粋な好奇心で詩を書けてはいない。好きなことで生きていくことはそりゃあ理想だけど、自分が「三度の飯よりコレが好き!」と言い切れるものは今のところ何もない。詩は、現状それに一番近い存在だけれども。兎にも角にも、自信はあるけど、不安なのだ。まだまだ足りないものが多すぎる。日々、葛藤葛藤葛藤である。

 

そんな事を考えてたら、たまたま見たTumblr最果タヒさんがこんな言葉を記していた。

 

”詩は読まれないなんて、そんなことはないよって、ちゃんと詩は届くんだよって、私の詩を読んでくれる人たちが教えてくれました。詩集を出す勇気を、読んでくれる人たちにもらっています。私にとって最高の詩は、読んでくれる人と私との間に存在するもの。読んでもらえて、きっとやっと詩は完成するんです。”(最果タヒ.tumblrより)

 

なんだかグダグダと考えてた事の全てが、この文章に行き着く気がします。読んでくれる人。「いいね」と言ってくれる人。作品を買ってくれる人。それは、自分が悩んでどうこうできる次元の話じゃない。それこそ努力より”運”の世界の話だと思う。それでも、だからこそ努力は必要。公に名乗りたいとか、収入が欲しいとか、そういうこと以前に、「作品を届けてくれてもいいよ」って宛先が無条件にある現代の寛大さに感謝。僕にも僕以外の人にも、”自分の好き”を届けてもいい場所が無限にあるということ。それはとても、考えると楽しいですね。

 

作家で生きている人は、サラリーで生きている人とは”報酬に対しての考え方”が全然違う。僕は詩の面白さ以上に、その”作家としての生き方”に惹かれているのかもしれない。

 

「あの人たちと同じ世界に行ってみたい」

 

今日はとりあえず、この結論に落ち着いた。(完)

 

【10代に共感する奴はみんな嘘つき】

文學界4月号に掲載されている最果タヒさんの短編小説。

 

とりとめのない感情を原液のまま体内に流し込まれるような感動を得た。

 

最果タヒさんの小説は感情の密度が高く、先月読んだ「渦森今日子は宇宙に期待しない。」と同様、鮮明なカオスを纏っている。

 

主人公の唐坂カズハ(17歳・女子高生)は、一見キャラクターの中で誰よりも大人びていて聡明で、個人的には好きなタイプ。でも「10代」「女子高生」「学校」という檻の中では、その聡明さが全てにおいて枷となる。世界は理屈で成り立っていない。特に10代の世界なんて、理屈は無慈悲に悪とされ、正しさは愚かさとして処理される。物語の中で唐坂カズハが考えることや言動は筋が通っていて正しい。ただ、その正しさを裏付ける根拠や経験がまだないから、ひたすらに脆い。それでもそうして生きることしかできなくて、戦っているつもりがなくても戦いの渦に放り込まれて、傷つけられているつもりがなくても心は確かに傷ついていく。

 

「かわいそうなのは誰だ」

 

物語に登場する人は、みんなみんなかわいそう。「かわいそう」って言葉は自分がかわいそうって言われるためだけに有るって思ってて、それでいていざ面と向かって言われると全身で否定する。(お前ら何やねん)そう言いたくなる気持ちは正しい。そして自が愚かな人間にカテゴライズされていく。この圧倒的違和感、矛盾。誰一人とも会話が成立しない苛立ち。その葛藤をケーキやパフェに乗っけて、ぐちゃぐちゃにして食べて、奇跡でもない満月を見たら、まぁなんとなくオールオッケー☆

 

「「死んだらなんとかなるからこの世界はどこまでも不幸になってOKなのかもしれないね。」」(本文より)

 

いじめや自殺が日常にありふれている世界で、みんな驚くほど普通に生きている。理屈ではどうすることもできないから、この世界では理屈が悪。わかりきっている正解に「意味ワカンナイ」で蓋をして、恋をしてセックスをして喧嘩をしてご飯を食べる。10代という生き物のルールは全てが暗黙。聡明な光は何処にも誰にも届かない。ただ、それで何の問題もないのだ。

 

そう、何の問題もない。

 

世界の中でいじめがあっても自殺があっても、そこに意味なんて誰も求めてない。だからもう、そういう事でいいんじゃない?(え、どういうこと?)そこは暗黙のアレで、お約束のコレで、とりあえずノリで、ほらいい夢が見られるように、それだけを思って今日は眠ろう。

 

まさに10代。

 

慣れれば悪くないと思うけど、慣れる頃には20代だね。

 

とにかくみんな、自分なりの理屈で精一杯にその場しのぎで生きている。みんなかわいそうだけど、それが10代。青春と名付けられるに相応しい世代。  〈了〉