品格ある灰色。
カニエ・ナハさんの詩集、【用意された食卓】を
油断すると、すぐ眠くなる。
かといって、眼力込めて読むものでもない。ような気もする。
起承転結があるわけでもなく、何か知識を得たり、教養を深めるためでもない。
ただ、詩人という人間の心象風景の断片を見て、(あー。と感動するくらいだ。
だから、本というカタチで存在するより、Twitterのように“ぽんっ”と可視化できる気軽いカタチの方が、関わり方としては理にかなっているのかもしれない。
言葉は見せ方で受け取り方が大きく変わる。誰が言うのか。何時言うのか。何処でいうのか。何の言語を使うのか。フォントは、行間は、文字の色は、大きさは。そして、受け手がどのような状態であるのか。細分化していけば、見せ方のパターンは無限に在る。発信者としては、見せる以上は「魅せたい」と思うのは当然で、でも、そこは完璧にはコントロールはできない。人間が持つ能力と評価が対等になることは稀だ。それは分かってる。それでも独り善がりにならないように、でも出来るだけ自分を出したい。そんな思考の摩擦の末に、本という選択肢が存在する。こんな小難しく考えなくてもいいかもしれないけど、モノづくりに関わると否が応でも考えてしまう。難儀だ。
僕の処女作となる詩集【℉】も順調に出来上がりつつあります。
I AM A HERO.(R15+)
映画、アイアムアヒーローを観てきました。
何が歯痒いって、今のこの興奮を伝えられるだけの文章力が僕にないことですよ。
(以下、感想)
いや、
なんていうか、
もう、
ほんと、
これ、
すごいよ、
ね、
うん、
ていうか、
うわー、
なんだろ、
あああああああああ、
ヤバい。
ほら、僕の文章力ではこれが限界です。
でも、書きたい衝動が収まらないので駄文ですが綴ります。
まず、何からどう書けばいいでしょうか。
ーーー。
アイアムアヒーローの原作ファンの方で、もし「まだ観てない」という人は『いいから黙って映画観てこい』もうブログ読まなくていい、はい、今すぐ、いってらっしゃい!(おわり)
で、アイアムアヒーローを知らない人は続きをどうぞ。
ーーー。
【アイアムアヒーロー】は、花沢健吾さんの漫画が原作です。ストーリーの内容は、主人公の鈴木英雄(将来に希望が持てない35歳のマンガ家アシスタント。クレー射撃が趣味で散弾銃を所持している)の目線で描かれる世界の崩壊劇。ありふれた何気ない日常が、音を立てながら超絶リアルに壊れていきます。
簡単に言うと【ゾンビ映画(漫画)】なんですけど、バイオハザードとかをイメージしてたら度肝抜かれます。作品内で奴らは「ZQN(ゾキュン)」と呼ばれていて、ゾンビ作品の基本的なルールである「ゾンビは人間に噛み付く」「噛まれたら感染する」「頭部を完全に破壊しないと倒せない」などは踏襲されていますが、他のゾンビ作品と決定的に違うのは『どこまでもリアル(日常的)であること』と『主人公がたまたま銃が扱えるだけの普通のおじさんであること』です。
バイオハザードとかは、主人公が格好いいじゃないですか。体格も良くて、運動神経も抜群で、絶対に死ななそうじゃないですか。でもアイアムアヒーローは、いつ死んでもおかしくない主人公なんです。主人公だから死なないとは思うんですけど、それでも頻繁に(死ぬんじゃない?!)って思わされます。だからこそ、見る側の僕ら(普通の人間)が感情移入・状況移入しやすい。それがこの作品の面白いところです。
ここまで書いて思ったんですけど。正直、映画観るよりも先に漫画の方を読んでほしいですね。1巻だけでいいので。1巻の”あのシーン”の衝撃に耐えられる人は映画館へ、耐えられない人は観ないことをオススメします。
僕は1巻の衝撃に一度は打ちのめされ、続きを読むまでに3ヶ月かかりました。あの頃はまだ”耐性”が弱かったので。それでも、今は19巻(最新巻)まで読み進めてる熱烈なファンになりました。面白いですよー。人によってはトラウマになる可能性もありますが、面白いですよー。
ーーー。
さて、映画の話に入ります。
まず、はじめに。【実写化】というものハードルの高さは、もう皆さんご存知ですよね。今まで自分の好きな作品(漫画・小説)が実写化(アニメ化)されて「全然違う!!!」と、憤った経験のある方は少なくないと思います。また、憤るまで行かなくても、「うーん。。まぁ、これはこれでアリか」程度のクオリティの作品が多いのではないかと思います。今回のアイアムアヒーローも、原作が原作なだけに期待よりも不安が大きかったです。でも実際に映画を観たら、そんな期待も不安も全部まとめて『フッ飛ぶ』くらい大満足の出来でした。
そもそも実写化において何よりも重要なのが「誰が演じるか」ですよね。作品の満足度は、ここで8割決まると言っても過言ではないでしょう。でもキャストが発表された時、僕は安心しました。主人公が大泉洋さん。これは、もう流石のキャスティングです。すぐに見えました。スクリーンの中で動く鈴木英雄が。ダブルヒロインのキャストも有村架純さんと長澤まさみさんという、なかなかの力の入れ様。まぁ原作ファンからすると(ちょっと美人すぎるんじゃないか?)とは思いましたが、スクリーン映えするという点では完璧な女優さん方です。そして、映画の中では期待を遥かに超える名演技。やっぱり実力派俳優さんたちはすごい。すごい。
そして、もう一つ。というか、主人公やヒロインよりも重要な役。この作品の”肝”である”ZQN”のクオリティについてですが。これが、もうね。
恐怖。恐怖。恐怖。です。
特殊メイクやCGを「これでもか!」と使い、基本の”動き”を各俳優さんが演じる形でしたが。これが、もうね。全員が完全なるZQNに変貌していました。めっちゃ怖い。めっちゃリアル。めっちゃ噛み付く。でも、だからめっちゃ面白い!この実写化に携わった方々、全員の原作に対する”愛”が伝わってきました。一切の手抜きなしです。
キャラクターもストーリーも、相当なレベルで原作に忠実に創られています。映画という短い時間での表現も、世界が崩壊していくスピードと上手くリンクしていてゾクゾクしました。絶対【続編】ありますよ、コレ。今回のを第1章とするならば、少なくとも第3章まではあります。(というか、やってください、おねがいします)
原作の方は、いよいよ佳境に入ってきました。死んだと思ってた人が生きていたり、絶対死なないと思ってた人があっさり死んだり、世界はすでに99%以上崩壊していて、そんな中でまだ生きている人たちは何を考え、どう動くのか。そしてこの作品に、花沢さんがどんなラストを描くのか。めちゃくちゃ楽しみです。それまでは死ねない。
あまりネタバレになるようなことは書きたくないので、この辺にしておこうかと思います。「グロテスクな表現・ホラー描写への耐性がある」と自覚している方は、どうぞアイアムアヒーローの世界へ行ってらっしゃい。ただしその後、すべての人間が怖く見えたり、肉料理が食べられなくなったり、悪夢にうなされたりするなどの後遺症を患っても、すべて自己責任ということで。
ーーー。
P.S.
君は、ヒーローになれるか。
君は自分の心臓の一部になってしまう音楽と出逢ったことがあるか?
僕はある。
タワーレコード難波店5F、
イベントスペースにて。
振り絞るように歌われた歌を、
噛み締めるように全身で聴いた。
バンド名は、tacica。
01.サイロ
02.夜明け前
03.発熱
04.Butterfly Lock
05.DAN
約30分間のミニライブ。
それでも瞬きが見えるくらいの近距離で触れた彼らの音楽は、例え一曲、いやワンフレーズだけでも聴く価値は十二分にあった。
ライブとか、人が密集する空間が苦手だから基本的には行かないけど、それでもtacicaの音楽だけは“生”で感じたい。
前にも書いたけど、多分これからも何度も書くけど。彼らの音楽は墓場まで持っていきたいんだ。秘密とかじゃなくて、死ぬまで聴き続けて、死んだ後も聴いていたいと思える音楽。
聴き続けて5年くらい経つけど、一曲たりとも中途半端なものはないし、何度聴いても何度聴いても何度聴いても、まるで褪せない。
これはtacicaを聴く方なら解る感覚だと思うけど、例えば日常、例えば水、例えば空気。当たり前にあるから、それに飽きるとかはない。tacicaの音楽は、音楽でありながら限りなくソレに近い。
歌詞、声、メロディ。あと、説明できない何か。それらを毎回微妙に配分を変えながら曲が創られているという感じ。添加物、着色料、不純物など一切なし。完全無添加のオーガニックミュージック。
正直これ以上の熱量はこの世界にはないと思う。音楽が人間に及ぼす影響はこの世で最強レベルだよ、絶対。
最後に。
まだ心臓まで届く音楽に出逢っていない人に、いつか良い出逢いがありますように。そして既に出逢っている人は、その音楽を死んでも聴き続けられますように。
今は、そんな気持ちです。
君は優しいから病人になりたがる。
優しい人。
優しいねって、結構かんたんに云われる。
僕は、ぜんぜん優しくなんかないのに。
それなのに、何故だか僕は。
生まれた時から、優しい人だ。
みんなの目が節穴なのか。
僕の目がガラクタなのか。
どっちなのかは分からないけど。
どっちなのかを分かる必要もないけれど。
優しいって何ですか?
優しいって何ですか?
大事な疑問なので2回言いました。
とりあえず。
優しい人として生きてきて、
これといって得したことも損したこともないように思う。
ただ「そういう人」なだけで。
目の前で転んだ子どもに(大丈夫?)って声をかけたり。
忘れ物をした友達未満のクラスメイトに教科書を見せてあげたり。
家族が疲れている時に家事を代わりにしてあげたり。
別に考えてやっているわけでも
何か見返りが欲しいわけでも
誰に優しいって思われたいわけでも
ない。
その日、その時々の気分で。
まー、なんとなく。
あくびをする程度の感覚でやってるだけです。
だから逆に。
逆に訊くけど。
「みんなは優しくないんですか?」
優しい人に「優しいね」って云えるのに。
みんなは優しい人ではないんですか?
そんなはずはないですよね。
僕は誰かに「優しいね」って云わないけれど。
云う必要もないくらい当たり前の事実だから。
∴
僕は数年前に病気になった。
最近流行りのメンタル系のやつ。
今は普通にしてるけど、
何かの拍子で終わってた可能性もある。
だから何だって話だけど。
まぁ要は、当時の僕は。
ここだけの話。
「病人になりたかったんだ」、、と思う。
優しい人。
云われ続けると結構しんどい。
それまでは無自覚だったんだけど。
20年間、僕に降り積もった「優しいね」が、
雪崩のように僕をのみこんだ。
そう、あの病気。
例えるなら雪の中。
真っ暗で、息苦しくて、感覚という感覚が消えていく。
半年間は、仮死状態が続いた。
あの場所から、どうやって戻ってこれたのかは。
記憶がほとんどない、ない、ない。
それ以前の記憶も、結構つぶれた。
今だからこそ、「あの時は」って話せるけど。
経験しなくてもいい経験だったようにも思う。
でも、優しい僕が、選んだ道だ。
何か、誰かに、伝えたかったのだろうか、僕は。
何も、誰も、変わらなかったけれど。
伝わったこと、変わったことがあるとすれば。
僕自身の内側だけに、「優しくなくても大丈夫」って。
心に通う血が変わった気がする。
それから気がついたら詩を書いていて。
これは自分から自分へのメッセージなのかもしれないな。
なんて、今、すごく適当に思った。
∴
優しい人。
みんなの目には見えないけれど。
意外と、こんな感じだったりもします。
不幸自慢とかじゃないし、
教訓めいた何かでもない。
ただ5月は、春はいろいろ騒つくから。
こういう場所に、
こういう風に、
こういう僕で。
言葉を書いてみたくなるだけ。
花粉もだいぶ減ってきたし、
テンションは高くないけど、
僕は僕なりに元気です。
嫌なことも、最近はあんまりないし。
良いことは、最近はどんどん増えてきたし。
波は、人並みにありますけどね。
みんな、それぞれ。
普通に過ごせる日が、たくさんあればいいと思います。
最初にタイトルだけ思いついて。
思いつくまま書いてみたけど。
葉桜みたいなブログになった。
こんな感じで終わります。
今は不思議と、優しい気分。
相乗効果と相性は未知数(三章編成)
場所:串カツ屋(ちょっとお洒落)
会費:3500円
メンバー:下記
やっぱりダメでした。
何がダメって、女性陣は予想以上にギャルギャルしいし、会話は内容よりノリを重視するし、「男は女を無条件でエスコートするものでしょ?」と自分の下品さや無知を棚に上げてお姫様を気取っているし。男性陣に関しては、僕以外は全員友達同士なので、見えない仲間意識バリアを張ってるし、せめてTMさんチョットはフォローしてよ!と思いながら全然助けてくれないし、一人孤独に戦うしかなく、まるで動物園の猿の檻の中に入り込んでしまったような錯覚を覚えた。
表現者の苦悩の果てとは。
表現者の苦悩の果てとは。
僕(斗掻ウカ)は、TwitterとTumblrとnoteでのみ「詩人です」と名乗っている。その理由は、やはりまだ「怖い」からだ。音楽や絵などに比べて、詩はクリエイティブの世界でまだまだ市民権を得ていないと感じる。しかも、名乗った時に変な印象を持たれやすい。(確証はないが)それは「誰でもやろうと思えばすぐできる(できそう)」というイメージや、いわゆる”ナルシスト感”が強いからではないだろうかと思う。あとは、音楽や絵などは”ながら”で消費できるのに対し、詩は一旦”読む”という作業に集中しなければならない。すごく短い本を読むのと同じだ。だから、まず本や活字を読む習慣のない人には1編すらも届かない。無理矢理届けたところで、そこに感動は生まれない。かといって、身内で盛り上がっているだけでは今以上の認知は得られない。つまり創作物としての価値がどんどん収束していく。このような連鎖が、詩が今ひとつパッとしない理由だと僕は考える。
実際、詩は文字さえ書ければ誰でも作れる。今すぐ作れる。俳句や短歌のように文字制限もなければ、季語を入れたり等のルールもない。思ったことを”それっぽく”言葉にすればいい。非常にインスタントでフリーダムな創作だ。まぁ、こだわれば何処までも時間とエネルギーを消費するのは他の創作と変わらないが。とりあえず”カタチ”にするまでのハードルが低い。そこが詩の弱い面でもあり、面白い点なんだけど。
また、詩は「上手い or 下手い」が判りにくい。そして「良い or 悪い」も判りにくい。詩は、どんな創作物よりも「好き or 嫌い」だけで判断できるし、そのシンプルさが市民権が得られない現状に繋がっているのかもしれない。努力(見せかけでも労力と時間とお金をかけた感じ)を完成品よりも評価されるのは納得がいかないけど、それでもやはり、人間の心理・真理的にはイージーカム・イージーゴー。作品に対して、その人がどれくらいの努力を費やしたのかが分かることは市民権を得る上では重要だ。これは一般論であり消費者の立場からの意見であるが、実際カタチにした時に見る人の直感に訴えるのはその努力の部分だ。これはもう、しょうがない。
僕は詩を書き始めてまだ間もないが、詩に限らず自分の好きな事でお金を稼ぎたいという思いはずっとある。(人間皆そうだと思うが)その為に、今現在【詩集】を創っていたり、【note】で投げ銭スタイルの投稿をしたりしている。まだまだ始まったばかりなので、収入らしい収入はないが可能性は意外と感じている。だから今はトライアンドエラー・アンドトライを繰り返すのみ。繰り返していく中で、とりあえず最初の目標にしているのがお小遣い程度(月に2〜3万)の収入を得ること。収入を目標にしている理由は、公の場(ネットの外の世界)で「詩人です」と口にしている人は、「詩でお金をもらっている人」以外では見たことがないから。だから僕にとって、いや一般的に職業として名乗るには、1円でもいいから自分の作品が売れる必要がある。ほんと、1円でもいいから。現時点で僕の詩集を予約していただいてる方が数名いらっしゃいますが、収入としてはまだ0円。その”目に見える報酬”があるかないかで、公の場に躍り出れるかどうかが決まる。少なくとも、僕はそう思っている。
その場所にたどり着くまでに何れくらいの労力を要するのか、何れくらいの時間が必要なのか、何れくらいの資金があればいいのか。そんなことは純粋な好奇心の前では関係ない。関係ないが、そう言い切れるほど純粋な好奇心で詩を書けてはいない。好きなことで生きていくことはそりゃあ理想だけど、自分が「三度の飯よりコレが好き!」と言い切れるものは今のところ何もない。詩は、現状それに一番近い存在だけれども。兎にも角にも、自信はあるけど、不安なのだ。まだまだ足りないものが多すぎる。日々、葛藤葛藤葛藤である。
そんな事を考えてたら、たまたま見たTumblrで最果タヒさんがこんな言葉を記していた。
”詩は読まれないなんて、そんなことはないよって、ちゃんと詩は届くんだよって、私の詩を読んでくれる人たちが教えてくれました。詩集を出す勇気を、読んでくれる人たちにもらっています。私にとって最高の詩は、読んでくれる人と私との間に存在するもの。読んでもらえて、きっとやっと詩は完成するんです。”(最果タヒ.tumblrより)
なんだかグダグダと考えてた事の全てが、この文章に行き着く気がします。読んでくれる人。「いいね」と言ってくれる人。作品を買ってくれる人。それは、自分が悩んでどうこうできる次元の話じゃない。それこそ努力より”運”の世界の話だと思う。それでも、だからこそ努力は必要。公に名乗りたいとか、収入が欲しいとか、そういうこと以前に、「作品を届けてくれてもいいよ」って宛先が無条件にある現代の寛大さに感謝。僕にも僕以外の人にも、”自分の好き”を届けてもいい場所が無限にあるということ。それはとても、考えると楽しいですね。
作家で生きている人は、サラリーで生きている人とは”報酬に対しての考え方”が全然違う。僕は詩の面白さ以上に、その”作家としての生き方”に惹かれているのかもしれない。
「あの人たちと同じ世界に行ってみたい」
今日はとりあえず、この結論に落ち着いた。(完)
【10代に共感する奴はみんな嘘つき】
とりとめのない感情を原液のまま体内に流し込まれるような感動を得た。
最果タヒさんの小説は感情の密度が高く、先月読んだ「渦森今日子は宇宙に期待しない。」と同様、鮮明なカオスを纏っている。
主人公の唐坂カズハ(17歳・女子高生)は、一見キャラクターの中で誰よりも大人びていて聡明で、個人的には好きなタイプ。でも「10代」「女子高生」「学校」という檻の中では、その聡明さが全てにおいて枷となる。世界は理屈で成り立っていない。特に10代の世界なんて、理屈は無慈悲に悪とされ、正しさは愚かさとして処理される。物語の中で唐坂カズハが考えることや言動は筋が通っていて正しい。ただ、その正しさを裏付ける根拠や経験がまだないから、ひたすらに脆い。それでもそうして生きることしかできなくて、戦っているつもりがなくても戦いの渦に放り込まれて、傷つけられているつもりがなくても心は確かに傷ついていく。
「かわいそうなのは誰だ」
物語に登場する人は、みんなみんなかわいそう。「かわいそう」って言葉は自分がかわいそうって言われるためだけに有るって思ってて、それでいていざ面と向かって言われると全身で否定する。(お前ら何やねん)そう言いたくなる気持ちは正しい。そして自が愚かな人間にカテゴライズされていく。この圧倒的違和感、矛盾。誰一人とも会話が成立しない苛立ち。その葛藤をケーキやパフェに乗っけて、ぐちゃぐちゃにして食べて、奇跡でもない満月を見たら、まぁなんとなくオールオッケー☆
「「死んだらなんとかなるからこの世界はどこまでも不幸になってOKなのかもしれないね。」」(本文より)
いじめや自殺が日常にありふれている世界で、みんな驚くほど普通に生きている。理屈ではどうすることもできないから、この世界では理屈が悪。わかりきっている正解に「意味ワカンナイ」で蓋をして、恋をしてセックスをして喧嘩をしてご飯を食べる。10代という生き物のルールは全てが暗黙。聡明な光は何処にも誰にも届かない。ただ、それで何の問題もないのだ。
そう、何の問題もない。
世界の中でいじめがあっても自殺があっても、そこに意味なんて誰も求めてない。だからもう、そういう事でいいんじゃない?(え、どういうこと?)そこは暗黙のアレで、お約束のコレで、とりあえずノリで、ほらいい夢が見られるように、それだけを思って今日は眠ろう。
まさに10代。
慣れれば悪くないと思うけど、慣れる頃には20代だね。
とにかくみんな、自分なりの理屈で精一杯にその場しのぎで生きている。みんなかわいそうだけど、それが10代。青春と名付けられるに相応しい世代。 〈了〉