遠浅の死海。

文字の海に溺れて死にたい。幸福の国。

暁に凪ぐ。

春だから。

 

この季節は誰もが何かと春にかこつけて、胸のざわめきや、言いようのないもやもやを桃色の花弁に紛らせ、散らしていく。

 

特に今年はみんな、自分が白か黒かも分からないまま、オセロゲームの盤上で身動きがとれずにいるみたいだ。

 

それでいて、いつか来る「その時」に怯えているような、どうせ来る「その時」を待っているような。

 

そんな春。

 

 

 

僕が春に抱くイメージは破壊と再生で、これには共感してくれる人も多いんじゃないだろうか。

 

破壊も再生も、フィクションの中ではとても心魅かれるファクターだけど、いざ自分事となると、なんとも不安で仕方がない。

 

実際このイメージは、僕にとっては限りなく現実に近くて、花粉も相まり、春はあまり好きな季節じゃない。

 

加えて、今年はこの有様である。

 

 

 

もっと言えば、個人的にも今は自分史上最大級の人生設計再構築期間に突入しているので、今、マジで中身がぐちゃぐちゃで、例えるなら蛹の中身よろしく状態なのだ。

 

したがって、今、どうしようもなく防御力が落ちている。全方面において。体力も、心なしか余裕がない。

 

だからなのか、今更あんな言葉にこれほど傷ついたし、あんな風に胸が痛かったのは、かなり久しぶりの感覚だった。

 

それでも、ほんの少しだけ嬉しかったのは、自分の感情に血液が流れている事を実感できたこと。怒りの感情を、美しく捉えられるようになっている自分を知れたこと。

 

そして、やっぱり“言葉を大切にしたい”と、心根から思えたこと。

 

 

 

繊細さは、資本主義社会において足枷でしかないと思ってきたけれど、この足枷こそが僕の武器なのだ。

 

この武器で、大切な人やモノや場所を護れるような人間になりたい。

 

ぐちゃぐちゃになりながらも、一瞬見上げた空に応えるように、一人、そう思った。

 

 

 

 

人が人を思うというのは、美しくもあり、非常に厄介だ。

 

僕は厄介なことには首を突っ込みたくない性格なので、あまり美しい人間ではないと自負している。

 

だから、今まで基本的に、ずっと自分の事を思ってきたし、自分の事を考えてきた。こういう人間を一般的にナルシストと呼ぶらしい。

 

だが、僕は人について思うことが苦手なので、人からの思いにもとても鈍感で。

 

それによって得をする時もあれば、当然、損をすることもある。まぁ、個性というのはそういうものだ。

 

 

 

 

春はきっと、僕が捉えきれないほど一瞬の夢で、あくびをして、涙を拭う頃には向日葵が微笑みかけているだろう。

 

そして彼らは無自覚に、答えのない問いを投げかけてくるんだ。

 

だから、ただ優しくて、でもまだ力のない新芽はしずかに嘆く。

 

時間がない。

 

時間がない。

 

時間がない。

 

時間がない。

 

それは命が燃えている証でもあるけれど、有り余るエネルギーが行き場を求めてさまよっている音でもある。

 

若いって、ただの概念。

 

数字なんて、ただの記号。

 

希望なんて、絶望ごっこの口直し。

 

わかってるよ。わかってるから。言葉が追いつかなくて苦しいのだ。

 

それでも、1歩。

 

自分の手足で、心と体で、前へ進む。

 

もう二度と、手遅れになってから大切なものに気がつくなんて嫌だから。

 

来年の春は、新しい芽で真っ直ぐ桜を見れるように。

 

僕は、もっと、高く飛びたい。