遠浅の死海。

文字の海に溺れて死にたい。幸福の国。

一生を越えても聴き続けたい。

だから墓場まで持っていきたい。

 

誰にも云えない秘密じゃなくて。

tacicaの音楽。

 

僕が「言葉の持つ可能性」に、生まれて初めて”感動”したバンド。 彼らの音楽を聴いた時、文字通り”感情”が”躍動”した。 表も裏も、光も闇も、本当も嘘も。 それら全てが在るが儘に描き出されている。血の通った声、言葉にならない言葉が、彼らの音楽には在る。 雄大な自然風景を眺めている時のような、そんな気にさせてくれる。 自然そのもののように存在しているから、 ただそれだけでいい音楽。 何時も聴いている。 僕の奥の方まで染み込んで、心の芯から安心できる。

 

僕はメッセージ性のある作品が苦手で、

僕はフォーマット化された感動が苦手で、

僕はフラットな正直者だけが好きなんだ。

 

だから僕はtacicaが好きで、好きというより日常だ。

 

聴き始めて5年くらい経つけど、驚くほど色褪せない。むしろ聴けば聴くほど変化して、深くなっていく。まるで職人が創った”一生モノ”の様だ。「様だ」というか、事実そうなんだけど。

 

当たり前を当たり前に歌う。

噓つきを噓つきのまま歌う。

心模様を心模様のまま歌う。

 

僕が詩を書く時も、tacicaを聴いている時の「あの感じ」を常に意識している。まだまだ全然うまくできてないけど、目指す感じは「あの感じ」だ。

 

tacicaについて語りだすと話が終わらない。

それに批評的に安易な言葉で語りたくない。

まだ彼らについて満足のいく文章が書けない。

なので語りすぎない程度にブログを終えます。

 

あとは曲を聴いてください。

 

全部一番好きな曲だけど、その中から一曲。

 

【DAN】をどうぞ。

 

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作詞:shouichi igari(猪狩翔一

作曲:shouichi igari(猪狩翔一

 

何度でも転ぶ映画の為に
別に恐怖はなかったけど
そこに最期はいらなかった

使い掛けの熱に明日が融けて
古い道具に囲まれた僕は
何だか機械みたいだ

どこに行っても同じの景色が嫌い
だから その絵の具は逃げて消えたのさ

そう 今日も又 アナタのいない場所を
手当たり次第探す
どこかへ行っても良いかだなんて思わないさ
描けない夢なんてない
叶わない夢なんてない
って思ってたんだろう ひとり
残り全部の命を使って

誰も僕に映画は観ない
だから上手じゃなかったけど
ここに最期はいらなかった

星の光から眼を逸らすな
作業場にて 只 脳裏を描く
引き返そうにも宛がないから
悪魔に云われた通りの歩行
是が非でも云わないサヨナラ
それだけが動かした体でもっと行こう
特別じゃないから強い
あの星の光から眼を逸らすな

今日も又 アナタのいない場所を
手当たり次第探す
どこかへ行っても色褪せない理由
そう 描けない夢なんてない
叶わない夢なんてない
って思ってたんだろう ひとり
残り全部の命を使って

残り全部の命を使え

 

学生ノリ。

学生ノリ。

 

今から数年前。

僕が大学生だった頃。

 

地元の友達(7〜8人)で【ツキメン】という名の友達同盟を組んでいた。いや、一応まだ解散はしていないので現在進行形だ。(組んでいた ⇨ 組んでいる)男女比は半々くらいで、正直どういった経緯で集まったのか全く覚えてないし、それに学校とかで特別仲良くしていたわけでもないし、ただ、なんとなく「始まりの日に集まれた奴ら」という偶然(という珍しくない奇跡)によって繋がれた同盟なのだと思う。

 

【ツキメン】の意味は非常に単純明快で、『月に一度、このメンバーで集まって飲み会しようぜ!!!☆☆☆』ってだけの話。でも実際、全員がちゃんと集まれた回はほとんどなくて、メンバー内で不貞行為等があったり、空気読まない幹事系人間がしつこく全員を集めようとしたり、僕は最初の2〜3回くらいで既に飽きていたり、まぁ普通のアホな大学生たちの愚行ですねコレは。

 

で、あれから数年が経ち。みんな(肩書きは)大人になって、忙しくなって、自然消滅したのかな?と思っていたら、先日メンバーの一部でまた集まろうとかいうラインが来て、僕は(へぇ〜)って思ったんだけど、時間も貯金もあるし行ってみるか!と行ったわけです。

 

感想は。

 

「「特にないです」」

 

で、終わりたいんですけど。

 

ブログなので、強引に感情を拡大します。

 

と言っても本当に別になんてことなかったです。

強いて言えば、今こうして久しぶりにブログを書くネタができてラッキー★という感想が9割を占めますね。残りの1割で感じたのが、「みんな恋人が変わっていたり結婚していたり仕事をバリバリやっていたりしてちゃんと大人やってるなーと思いかけたけど話をしていると彼・彼女らからどうしようもない幼稚さが滲み出ていて何だコレと心の中で復唱しながら不快な違和感がブクブク膨張していく自分は何で今ココにいるんだろうとか自問自答癖が始まって意味不明な疎外感や劣等感みたいなものが生まれ始めたんだけど結局大学生の頃からこんな感じだったような気もしてきて途中からは早くこのモヤモヤをブログに書いてこ消化・消火・昇華したい!!としか考えられなくなって最後に飲んだシャンディガフが美味しくてそれだけがいい思い出でハイッ終わり」ってな事でした。

 

もうツキメンについては書くこと無くなったので、唐突にこの話を終わせようかなとも思ったけど、なんとなく書き足りないので補足にならない補足として下記の哲学を残しておきます。

 

 

###

 

 

《人間関係はミルフィーユである》

 

”人”が生地で、”間”がクリームね。人間っていうのは、人(生地)と人(生地)は「一体」にはなれるけど、それは間(クリーム)があるおかげで、しかしながら、その間(クリーム)の所為で絶対に人(生地)と人(生地)とが交わることはないのです。

 

でも、それでいい。

 

それが美しいし、美味しいし、可愛いと思う。

 

人との距離感が分からない人。

君はいますぐミルフィーユを食べなさい。

 

食べる前によく観察をして、生地とクリームのコントラストを目に焼き付けて。それから生地とクリームを別々に食べてみて。(なんか違う..)と思ったところで、生地とクリームを一緒に食べてごらんなさい。それが君が求める答えだよ。

 

人(生地)は間(クリーム)があって初めて完成する。

 

人(生地)は固すぎても柔らかすぎても駄目で、

間(クリーム)は多すぎても少なすぎても駄目なんだ。

 

このことを肝に銘じておくといい。

 

きっと君のクダラナイ葛藤を、少しは甘くしてくれるさ。

 

 

###

 

 

以上、僕の哲学を終わります。

 

ご精読ありがとうございました。

 

m(_ _)m

 

【渦森今日子は宇宙に期待しない。】

女の子にしか書けない小説。

 

最果タヒさんの小説《渦森今日子は宇宙に期待しない。》を読み終わった瞬間に、反射的にそう思った。最近流行り?の大きすぎるパフェを一人で食べきったような読後感。それから、自分でもびっくりするくらい誰にも感情移入できなかった★

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ファッションで例えると、この物語は終始KAWAII系ファッション。

 

あと、これは僕が男(24)だからだろうか。読んでいる間、ずーーー・・・っと(数年前まで学校とかで聞こえていた、また聞かされていた)あの女子たちの他愛のない、とても刹那的で、でもどこか永遠的で、退屈なようで真理をついているような、目まぐるしく回転する新品遊園地のコーヒーカップに搭乗しているような、あの三半規管に”くる”感じ。あれを感じさせられて若干目が回ってしまいました。

 

でもそれが最果タヒさんらしい、つまり女の子らしい小説だなーと思います。彼女の詩や小説はどれも本当に女の子で、根拠のない圧倒感をまとっていて「あわー〜〜」ってなるから好きです。共感を超えた「好き」を僕の中に植えつけます。

 

ブックレビュー的なもののお約束というか、「◯◯な人にオススメです!」みたいな個人的見解を述べるのであれば、この小説が似合うのは10代の、というか、あくまで一般的な10代の性質を持ち合わせている人、もしくは周囲からは結構能力高そうとか思われてるけど実際の私は意外と空っぽででもそれを悪いことだとは全然思ってなくてむしろ可愛くない?逆に!え?逆に可愛くなくなくない?こんなミステリアスな私可愛くない理由なんてどこにもなくない?!(嘘。でもでもやっぱり心臓の端っこの方ではやっぱりモヤモヤしてるから寂しがり屋なんです私!でも友達としゃべってアイスとか一緒に食べたらもう悩みなんてどっかいっちゃいまーす♪(てへぺろ)みたいな人が読んだら共感とかしやすいじゃないかな、って思います。別に作品という作品すべてに共感が必須だとは全然思ってないから(むしろ要らないと思ってるから)、◯◯な人にオススメします!って取り立てて言うことではないけども。だから、みんな好き勝手に自分が興味のあることだけに触れたらいいじゃん、ね!(自己完結)

 

それから、たぶん何名かの人は見落としがちな”帯”に綴られている大森靖子さんのレビューもいい。やっぱり女の子っていう生き物は【女の子同士】でしか分かり合えない、イルカとか(適切)コウモリとか(不適切)が出す、あの【チョーオンパ】みたいなビームみたいな何かを常に発信していて、女の子はみんなその不思議電波で繋がっていて、実は案外宇宙人で、それこそ正真正銘の男子禁制のスカートの中みたいな膜の中に存在している天然記念物なんじゃないかなーとか思ったり思わなかったりしました。(疎外感)

 

物語の具体的な設定や内容については2mmくらいしか触れていませんが、気になる方は「他の方のレビューを読む」か「買って読む」かしてください。(丸投げ)

 

売れ行き次第で続編?の可能性があるらしいので、是非☆

 

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静かな時間を愛するすべての人へ。

静かな時間を愛するすべての人へ。

 

Q.「静かである」というのは、あなたにとってどのような状況の時に得られる感覚ですか?

 

・一切の無音空間にいる時?、

・心地よい音だけが聞こえる場所にいる時?、

・静かな人と過ごしている時?、

・薄闇の中ひとりで眠っている時?、

 

人が「静かである」と感じるシチュエーションは様々あると思いますが、今僕が例として挙げたそれらは外因的な要素でしかなく、真に人が「静かである」と感じるのは、”精神が静寂している時”だと思います。心における説明できない現象は、突き詰めていけば全て内因的な問題によって引き起こされているのです。ただ、「精神が静寂している」ことを言葉で他者に説明することはできません。かといって、別に説明する必要もないので何の問題もありません。と、言いたいところですが。その”説明できない精神”を抱えているという状況は、常人にとって心の平静を失いやすい状況でもあります。つまりここに、人が静かな時間を愛する際の”ジレンマ”が発生するのです。人は、根っこの部分では”共感”を求めています。そこは絶対だと言い切ります。なので、たとえ「精神が静寂している状態」であったとしても、そこに共感がなければ心は騒ついてしまうのです。それはすぐに雑音となり、やがて騒音へと自分の中で膨張していきます。だから、精神が静寂していることを他者に説明して共感を得なければ、精神の静寂は完成しないということになります。しかし、そういった説明を思考すること自体、静寂に反する行為であり、元も子もない愚行です。そもそも「精神が静寂している」という感情でなくとも、感情そのものが他者に説明することは非常に難しい物体なのです。説明とは、自分一人で成立するものではないではありません。だからこそ、人は自分でも掴みきれない空気のような何か(つまり感情)を他者に説明するためにコミュニケーション能力を磨き続けるのだと思いますが、それも僕からすれば愚行でしかありません。ほら、これがジレンマです。そして以上の話から、僕が「精神の静寂」について立てた仮説はこうです。どん。

 

流動性を持った”時間”という概念こそが、人間に最も適した精神の静寂をもたらす鍵となり得る】

 

動き続けること、変わり続けること、流れ続けること。そういった、一見静寂とは真逆に位置するような概念や行為が、実は静かな時間を愛する人に必要なものだと僕は思います。とりあえず今は、そう仮定します。ただ、一つだけ注意すべき点があるので補足しておきます。それは、今述べた概念や行為に「特別な事」から得られるエネルギーを使用してはいけないということです。なぜなら「特別な事」、つまり何かしらの非日常的なイベントから得られるエネルギーを原動力としてしまっては、一瞬でそのエネルギーは枯渇し、あっという間に自分を前に進められなくなる。 よって、流動性を失うのです。これは主に僕の経験則から計算された自己中心的理論ではありますが、今この文章を読んでいる人には大方当てはまる話だと思いますのでこのまま進めます。僕がある時期から”ノリ族”や”テンション族”に距離を置いて接しているのは、そういった思想(トラウマ)があるからです。奴らは僕の精神の静寂を奪い、流動性を失わせる邪魔者でしかありません。話を戻しますと、 広義義な意味からいえば、現状を維持し続ける事だけが平穏と安寧につながります。それは僕にとっては間違いない。だからこそ動き、変化し、流れていかなければならないのです。それが僕の理想。精神の静寂を得る最善の方法。ただ、現時点でなんとなく分かってしまう事があります。それは、この理想が実現された世界はきっと脆いという事です。 そして、その予想される脆さは、そのまま自分への刃となって襲ってきます。 個人が讃える理想などは所詮その程度のものでしかなく、逆説的にいえば、人類はもう詰んでいるという話になります。 理想に行き場など無いのです。精神の静寂を求めようが何を求めようが、人はそのまま、その心から解放されることはありません。この世界に真実というものがあるとするなら、それに最も近い概念は”虚無”ではないでしょうか。それはできれば触れたくないもので、触れたところで何か掴めるわけでもありません。僕らは思考する能力を持った時から、この運命に辿り着くように仕組まれていたのでしょう。誰に?誰に?それもまた、虚無の中にしか答えはありません。

 

「静かな時間を愛するすべての人よ」

 

それを知っても尚、誰も自分の思想やジレンマに立ち向かう姿勢を変えようとしないのは、そこにあなた自身の【生命】を感じるからではないだろうか。「結局」と言って仕舞えばすべてに決着がつくことは分かる。でも、そういうことではないのですよね。あなたがあなたで在るための理由と自由は、誰かに定義されてしまうほど柔なものではないですよね。はい、その通りです。僕は今日、ここに行き着きたかったのかもしれません。今、一瞬。心が「静かである」と言っている気がします。そしてほら、また騒つきだした。楽しいですよね、こういう遊びは。あなたも僕も、いつかまた何処かで逢える気がします。その時はどうぞ、この一瞬をまた一緒に目指してみましょう。今日はお付き合いいただきありがとうございました。一応言っておきますが、基本的に僕のブログに根拠や整合性はありませんので悪しからず。

 

さぁ、

それでは、

エネルギーが、

もう、

切れそう、

なので、

ぼちぼち、

寝ますね、

おやすみなさい。

 

どうか皆さん、良い夢を。

 

fin.

成就しなかった初恋は呪い。

僕の初恋は16歳。

高校一年生の時。

 

今ままでの人生で、僕が「恋をした」と言えるのはこの一度きりだ。

それから【告白】という神風特攻をしたのもこの時、あの一度だけ。

 

相手は同学校の先輩。

2つ年上のバトントワリング部の女性。

 

ベタな比喩だけど花に例えるなら”ひまわり”のような人で、

僕だけではなく学校中の男子の憧れのマドンナさんだった。

 

先輩を初めて見たのが入学式の日。

バトントワリング部のパフォーマンスタイムの時。

 

20名以上の部員さんたちが同じ衣装で舞っていた。演目は、忘れた。でも先輩は、その中で誰よりも目立ってて、キラキラしてて、かわいくて、美しくて、絶対的な存在感だったことは憶えてる。このパフォーマンスで新入生男子のほとんどが「あっ..」と思ったことだろう。

 

その日から一年間。僕は、人生で初めての”フィクションではない痛み”を味わい続けることになる。リアルな青春は誰にとっても命がけだ。

 

...と。

 

もしもフィクションの恋愛ドラマであれば、ここから何かしら超ラッキーなイベントが発生して、そこから先輩とお近づきになり、でも最初は後輩・友達の一人としてしか認識されず、それでも僕の先輩に対する想いは日々つのっていき、ある日先輩が何かしらで落ち込んでいる隙を狙い、真摯に相談を受け、問題が解決した頃を見計らって、今ままで秘めてきた想いを伝えるが、「急にそんなこと言われても..」と、受け止めてもらえず、一度はフラれ、お互い連絡を取らなくなり、数年が経ち、やがて社会人になり、お互いに別々の恋人ができ、それぞれの道を歩んでいく、はずだったが、僕も先輩もその恋人となんとなくマンネリ化してきて、ある日僕は休みの日に、なぜかふと母校に行ってみたくなり、卒業式シーズンの頃、春用の淡いコートを羽織ってあの高校に向かう、と、そこには見覚えのある姿があって、それは大人になった先輩で、僕はしばらく息が止まっていたことにも気づかないくらいわけのわからない感情に全身がおかされていくのを感じながら立ち尽くす以外なにもできないでいたら先輩もこちらに気づいてお互い「あっ..」ってなって、世界の時間は一瞬だけ完全に停止した、なんて思っていたら「◯◯◯くん?」って云われて、「はい」って言って、それから何を話したのかは全然憶えてないけど、今度の日曜日に二人で動物園に行くことになったらしいことを、家に帰ったあとに先輩からのラインで知って、あわーっ!てなって、そこからはもう皆さんのご想像にお任せしたいところなんですが、というか大筋は皆さんのご想像通りの展開になると思うんですけど(だってこれはフィクションだから)、だからとりあえず約束通り動物園に行って、かわいーねー、くさいねー、おおきいねー、かふんしょーだいじょーぶー?とか言い合いながら一日を過ごし、帰り際に「「ねぇ」」って台詞がかぶって「「あっ、えっ、なに?」」ってなって、それから笑って、寂しくなって、とりあえず、なんとかまた会う口約束をして、帰ろうとした時に、やっぱり、まぁ、そうなって、この時はすでにお互いの恋人のことなんてどーでもよくなっていて、でもそれが恋っていうものでしょう?とか割と本気で思ったりもして、こんな奇跡が起こったこと、未だに信じられないけど、いつの間にか僕は、潰されてしまうくらい密度の高い幸福の中にいて、まるでドラマの主人公になったみたいだなー、とか考えてたら、当然お決まりの流れとしましては、再会して1年後の春、またあの校舎の前にふたりで立って、僕はありったけの幸福を込めた指輪を見せて、先輩、いや、彼女に永遠を誓うプロポーズをしたんだ。(完)

 

・・・。

 

なーんて、こんな妄想茶番劇のようにはいかず。

 

哀しいかな、現実はこうだ。

 

あの頃の僕にできたのは、当時流行っていたSNSモバゲータウン」で先輩と接触し、そこからメールで他愛のない会話をやりとりするという陰気なアプローチだけだった。僕以外にも同じ手法をとっている奴がいるだろうとは思っていたが、そこは別にどうでもよかった。メールを始めてから、実は中学が同じだったことや、意外と住んでる場所が近いことなどが判明し、僕は若干浮き足立っていた。ただそれだけのことで。これが夏休みに入った頃の話。しかし、この後すぐに僕は死ぬ。夏休みが終わる頃。何気ない会話の中で、先輩にはすでに大学生の彼氏(あっくん)がいることを知る。それを知った時は正直吐いた。吐いたけど。絶望だったけど。それでも、メールのやりとりはやめなかった。やめたくなかった。理由は、その時の僕は(今もだけど)相手に恋人がいることを知りながらアプローチしていく器用さはなかったし、だから、電話しよう!とか、遊びに行こう!とか絶対言えなくて。だから、何気ないメールだけが先輩との唯一のコミュニケーションだったし、情けないなと思いながらも、自分の気持ちをごまかすにはそうする他選択肢がなかった。そんな地獄の釜でぐつぐつ茹でられる日々を過ごしていたら、あっという間に夏が終わった。それから秋が来て冬が来て、春が来た。先輩が卒業してしまう春。先輩が就職して遠くに行ってしまう春。会って、想いを伝えるチャンスが、本当になくなってしまう春が来た。その時、なぜか僕はこんな言葉を思い出した。【どんな草食動物でも死の淵まで追い詰められれば、肉食獣をも凌駕する力を発揮することがある】と。まぁ要するに。僕の感情は、この時ついに、ブレイクしたのだ。「もう後がない!」「会うしかない!」「会って、想いを伝えるしかない!!」砕け散ることはわかっている。わかりきっている。だかしかし、絶対に勝てないとわかっていても、たとえどんなに自分が傷つく結果になろうとも、男には、僕には、決して逃げてはならない場面がある!!春一番が吹いたその日、16歳の僕は一点の曇りもなくそう思った。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーー。

 

ここから先の話は、取り立てて書く必要もないだろう。

 

10年近く経った今でも、あの人の笑顔と誕生日だけは覚えてる。

 

今どこで何をしているのかは知らないし、知りたいとも思わない。

 

知ってしまえば、会ってしまえば。

 

あの日、僕にかけられた呪いが解けてしまうような気がするから。

 

成就しなかった初恋は今、僕の心臓の一部になっている。

 

あの人が好きだと言っていたJ-POP歌手の曲。

あの人が欲しいと言っていた鞄のブランド名。

あの人が楽しいと言っていた彼氏とのデートの話。

 

その全部を僕は無理やり噛みちぎって、喉の奥の奥まで押し込んだ。

 

死ぬまで、あの人を忘れないように。

 

これが僕の10代であり、青春と呼べる永遠時代。

 

これはもう恋などという俗物的なものではなくて。

 

まだ誰にも名付けられていない感情。

 

今までも、そしてこれからも。

 

未来永劫名もなきままに、10代を殺しいく感情。

 

僕は、それがこの世で一番の「美しい」だと思う。

 

みんなが欲しがって、絶対に手に入らない 永 遠 だと思う。

 

もう一度、あの時代を経験したいとは思わないけれど。

 

だからこそ、「だからこそ」って今言えるのだと思う。

 

僕は、それがとても嬉しい。(嘘)

 

この世界には、いろんな呪いが溢れている。

 

その中で【成就しなかった初恋】という名のそれは。

 

僕が、かつて10代を生きた証明になる。

 

呪いになる。

 

心臓になる。

 

当たり前じゃない当たり前になる。

 

マッチの火みたいに密かに燃えた、僕だけの永遠時代は。

 

僕だけが物語の主役となって、死ぬまで命に刻まれる碑。

 

どんな時でも「生きてたよ」って、本気で思える唯一無二だ。

 

僕はただ、今もどこかであの人が笑っていることだけを願う。

 

僕に青春を与えてくれて、永遠に解けない呪いをかけてくれた。

 

あの人に。

 

「     」

 

伝えたい言葉は、今はそれだけだ。

 

 

おしまい。

 

 

5年前。

“神様”と呼ばれた竜が北の空で、死んだ。

人々の欲望、希望。

食べきれなくなって、背負いきれなくなった。


その竜は、透き通るほど白く、美しい。

死んでも尚、美しい。


心臓が止まって、少しずつ灰になる。

雪が降り積もって、溶けてゆく。

内蔵と骨は、広く浅く、空を覆う。

折角の月見日和だけど、空を覆う。

地上の人々に、少しの雨を降らす。


『……ああ、今日は疲れた。』


それぞれの世界は、理解し合うことはない。

絵の具を混ぜても、望む色は出せない。

抗えない運命を、受け入れたって、もう。

神様は、もう、死んだ。


北の空は、寒いけど、星が綺麗だ。

月明かりも、ただただ心地いい。


目の前に拡がる地図を、踏む。

己の狭さと可笑しさを、知る。


イヤホンから取り込む、心の栄養。

効き目のない薬みたく、深くまで流れ込む。

深く、深く、流れ込む。


油性マジックで描かれたシナリオ。

消ゴムで消しても、消しカスが積もるだけ。

やがて、それが山となる。

白い消しゴムを磨り減らして、黒い山となる。


地上の景色は、そうして変わってゆく。

磨り減らして、いつかなくなって。

真っ黒な存在証明書だけが、残ってゆく。


理由とか意味とか、そんな薄いものじゃなくて。

ただ“そういうもの”だけが残ってゆく。

地味で、平坦で、真っ黒い、そういうものが。


“神様”と呼ばれる竜が北の空で、生まれた。

人々の欲望、希望。

生まれたての竜は、それらを貪り喰う。

己の本能のままに、貪り喰う。


その竜は、世界を壊すほど、醜い。

生きれば、生きるほど、醜い。


真っ赤な心臓が躍動し、脈を打つ。

マグマを吐き出し、全てを溶かす。

地上の人々の、核に訴えるように。


その竜は、月をも喰らう。

醜い体を、光で覆いたいから。


欲望と、希望と、月。

磨り減らして、積み上げる。


そこに在るだけの儚さと、尊さを。

磨り減らして、積み上げる。

“神様”と呼ばれた竜と、僕らの命。

神の手は優しくって残酷。

僕は2ヶ月ほど前から2週間に一度、近所の皮膚科に通っている。左足の裏にイボができて、それを切除するためだ。別にイボそのものは痛くないのだが、これを切除するための治療には相当な痛みを伴う。

 

治療の内容はこうだ。

 

液体窒素ターミネーター2で敵のサイボーグを致命傷に追い込んだ劇薬)でギュンギュンに冷やされた医療用綿棒をイボにグンッグンッ押し当てる。想像してみてほしい。足の裏という、人間の身体の中でも敏感な部分ベスト3に入る場所に、画鋲を刺しては抜き刺しては抜き ×(10回以上)、さらにその上からガスバーナーでジュワジュワ炙られる恐怖と痛みを。実際は綿棒で地味に行う治療で傍目から見れば別段痛そうに見えないかもしれないが、体感的にはそれくらいされているのかと思うくらい痛い。本人が言っているんだから間違いない。僕は痛みに対しては人並み以上に強いと自負しているが、その治療の数分間は冷や汗が止まらない。極限まで冷やされた綿棒は、容易に拷問器具になりうることを僕は知った。しかも、治療まだこれで終わりではない。これでもか!と痛めつけられたイボ、及び周辺の細胞は死滅し、一旦水ぶくれになる。そして、やがて黒く変色する。その黒ずんだ塊を、今度は医療用のハサミでジョキジョキ切っていくのだ。(※綿棒の日とハサミの日は同日には行いません)もちろん死滅している部分だけを上手に切ってくれれば痛みはほとんど感じないのだが、運が悪いことに医者の先生は結構なストロングスタイル。まだ生きている、つまり何でもない健康な状態の細胞も若干巻き込んで切っていく。実に男らしい先生だ。しかしながらこの恐怖、この痛み、半端ネェ!!想像しにくい人は、一度足の裏をコクワガタ(♀)に挟まれてみてほしい。さらにその上から熱した油を数的垂らしてみてほしい。クワガタは大きいものより小さいものの方が挟まれた時のショックが大きい。これは著者の体験に基づくので間違いない。この時はすでに、僕の意識は仮死状態になっている。というか、意図的にそうしている。自らの意思で精神を仮死状態にできるとは、人間の防衛本能というのはまだまだ奥が深い。辛いものを食べ過ぎて途中から辛いのかどうかさえわからなくなるように、痛すぎて痛いのかどうかすらわからなくなる。それでも先生を信じて僕は、まな板の鯉よろしく、されるがまま、ありのまま、レリゴー♪ レリゴー♪ と耐えているのだ。本当に偉いと思う。

 

ロシアあたりでは密かに行われているであろう、この拷問(治療)の数分間を終えた後に先生は毎回「はい」とだけ言う。いつも毎回「はい」で全てが許される。病院での医者というのは、まさになのだなと身をもって感じている。そう考えると、ストロングスタイルで貫く先生も、この恐怖も痛みも全て「平和の為には多少の犠牲は厭わない」と常日頃から考えている僕に向けられた何らかのメッセージなのかもしれない!などと思ったりもする。残酷さの中にこそ、真の優しさがあるのかもしれない。

 

生まれつき平和主義者である僕に、まさかこういった治療(拷問)が2週間に一度やってくる年になるとは想像もしなかった。おみくじは大吉だったのに。でも、先生がストロングスタイルで攻めてくれているおかげかどうかは知らないが、イボはもうほとんど消えかけている。多分、長くても4月中には終わるだろう。(先生談)それまでは、耐えなければならない。耐えたとて、何か達成感が得られるわけでもないだろうが、それでも僕は耐えねばならない。まだ気温が安定しない今日この頃。花粉症には地獄の季節が始まった。近所の桜はもうすぐ咲くのか。未来のことはわからない。でも今まで運良く生きてこれた。何の保証にもならないけれど人はそれだけで未来を想える。ああ素晴らしきかな人間よ。足の裏のイボを憂いながら、まだ見ぬ少し未来の自分が、今日より、いや今日と同じような日々を続けていられることを願う。2016年3月8日。斗掻ウカ。「2時間待ちです、」と言われた病院の、潔癖な待合室にて。

 

了。