遠浅の死海。

文字の海に溺れて死にたい。幸福の国。

相乗効果と相性は未知数(三章編成)

《第一章》
4月末日。
5年以上振りに徹夜をした日。
僕は生まれて初めて【合コン】という儀式に参加してきた。きっかけは僕が広告代理店で働いていた頃のクライアント(TMさん27歳)が誘ってくれたからだ。正直、TMさんとはプライベートでは会ったこともないし、そんな誘いをいただけるほど仲良くはないと思っていた。悪い人ではないけれど。まぁ、TMさんからの誘いに限らず。僕はそういう勢いしかない若者が集う儀式的なイベントを極力避けてきた。そんな僕が何故に今回は参加したのか。別に暇だったからとか彼女が欲しいからだとか、そういった明確な理由はない。
ただ、なんとなく、気が向いたから。
それだけの理由で参加することにした。
それ以上でも以下でもない。
大事な事ほど”なんとなく”を信じて道を選ぶのが僕だ。
僕はそういう人間だ。
で、今回参加した合コンの詳細はこちら。
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男女比:6vs6
場所:串カツ屋(ちょっとお洒落)
会費:3500円
メンバー:下記
♂:TM, TK, TP, TT, KM, UKA(僕)
♀:MO, SYK, RR, SH, MK, HAL
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とりあえず結果から言うと。

やっぱりダメでした。

何がダメって、女性陣は予想以上にギャルギャルしいし、会話は内容よりノリを重視するし、「男は女を無条件でエスコートするものでしょ?」と自分の下品さや無知を棚に上げてお姫様を気取っているし。男性陣に関しては、僕以外は全員友達同士なので、見えない仲間意識バリアを張ってるし、せめてTMさんチョットはフォローしてよ!と思いながら全然助けてくれないし、一人孤独に戦うしかなく、まるで動物園の猿の檻の中に入り込んでしまったような錯覚を覚えた。
別にそういう方々の”存在”を「ダメでした」と言うわけではなくて、僕には扱いきれない種類の人間だから【ダメだ】という話で、まぁ相性の問題です。そもそもTMさんの人間性から集まる人種のタイプは大方予想できたし、こうなる事を覚悟の上で参加したんですけどね。ただ実際、年齢も前後1〜2歳しか変わらないのに「ここまで居心地が悪くなることがあるのか!」と驚きました。経験してみないと分からないことはこの現実にはまだまだ沢山あるのかもしれない。そのことを再認識できただけでも、僕としては参加した意味があったんだと、無理やり意義を見つけ出す僕は偉い。
約3時間の食事が終わった後、女性の半分はそそくさと帰宅。残った女性3名と男性6名でボーリングをすることになった。まず選択肢がカラオケかボーリングの2択って。やはり人間は年齢ではなく”属性”で分けられるべきだなぁと思った。永遠に10代から抜け出せない人間というのは、僕が想像しているよりずっと多いのかもしれない。とにかく、無理やり大学生に気分を戻して9名でボーリング場へ移動。
このボーリングで、僕は貴重な体験をすることになる。
 
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《第二章》
まず、はじめに。
僕はボーリングが嫌いだ。
器械体操や格闘技などの体一つで行うスポーツは得意だけど、野球やサッカー、バスケットボールなどの球技全般が昔から苦手で、だからボーリングも嫌い。それに加えて、同年代の(僕の周りだけかもしれないが)男同士でするボーリングは何故か、必ずと言って良いほど”金を賭ける”という謎の風習があり必然的に僕は損をすることが多いから余計に嫌い。
今回は女性がいるので賭けはないと思っていたが、女性陣は1ゲームだけ適当に投げて帰宅。(何しに来たんだよ..)で、男6人だけが残された。僕は、(ここで解散かな?でももう終電も行っちゃったしどっかの漫画喫茶にでも入って始発でも待つか)と考えていたら突如『よっっしゃああああああ!!!今から朝まで投げまくるでーーーーーーーー!!!!!!フォオオオオーーーーーーーーーーー!!!!!!!』と、一番お調子者のTKが叫んだ。これは比喩ではなく、そこそこうるさいボーリング上全体に響き渡るほどの大声で、文字どおり、彼は叫んだ。GW中なので、人も結構いたのに。まさに猿。そして有無を言わさず【男だけの朝までエンドレスボーリング大会】が始まった。開始時刻は深夜1時。始発は朝6時頃だから、つまり5時間ほど投げ続けることになった。僕にとっては拷問以外のなにものでもない。自分で行くと決めて参加した結果だから仕方がないけれど。
僕の周りの男たちを含め、基本的に猿たちはボーリングが上手い。そして1ゲーム目で、こいつらも相当なレベルだと確信した。ちなみに僕の平均的なスコアは80〜100くらい。普通にガターも出すし、スペアやストライクなど取れたら相当ラッキーだ。一方猿たちは、普通にカーブとか投げるし、スペアもストライクも取れない方が珍しいくらいのレベル。スコアは全員150〜170くらい。こんな連中に僕が太刀打ちできるはずはない。しかも、当然のように賭けも発生した。しかし個人戦ではなく、3対3のチーム戦形式だ。チーム戦なら負けたチームが勝ったチームに100円とかなので、負けても一人当たりのダメージは低い。僕の実力は最初のゲームでバレてるので、少し気をつかってくれたのかもしれない。
そしていよいよ、長い夜が始まった。
ここまできたらもうやるしかない。負けた分は今日の会費だと思うことにしようと腹をくくり、僕は全神経を込めて投げ続けた。すると、どうだろう。始まって数ゲームはスコアが100に届くか届かないか程度だった僕が、深夜3時を過ぎたあたりから段々と普通に100以上のスコアを出せるようになってきた。まぁ、慣れもあると思う。今までも、何度か投げてるうちに感覚を覚えてきて120くらいまでなら出せるポテンシャルは僕にはある。だから今回もとりあえずその辺を目指して投げていた。しかし、どういうわけか。深夜4時を過ぎた頃、眠気も疲れも溜まってきた頃なのに、スコアが120を平気で超え始めたのだ。他の連中に混ざっても大差ないほどに、僕はボーリングが上手くなっていた。ここまでのレベルに来たことは未だかつて一度もない。徐々に猿たちも僕の成長ぶりに驚き始め、知らず知らずに仲良くなっていた。彼らも僕と同じかそれ以上のハイスコアを出し続ける。僕はそれに必死で追いつこうとする。もはや何が目的で今日合コンに来たのかわからなくなっていた。そんな中、深夜5時、というか朝の5時頃。そろそろ大会も終盤にさしかかってきた時に、ついに僕は覚醒した。何と、スコアが【200】を超えたのだ。
「!!!」
ボーリングをしたことのある人なら、このスコアがどれくらいのものなのかだいたい分かるとは思うが。とにかく、僕が一生出すことはないだろうと思っていたレベルのスコアが出たのだ。さすがの僕も声をあげた。柄にもなく、全員とハイタッチを交わした。あんなに嫌いだったボーリングで、こんなに高揚感を得ることができたのは本物の奇跡。僕は(あの”なんとなく”は、この瞬間につながっていたんだ)と思った。結局、賭けもそこまで損をすることもなく、まぁいい感じで大会は終了した。
 
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《第三章》
人間関係は化学反応だ。
個人で出来ることなど高が知れている。だから人は人と出会い、言葉を交わし、未知に触れ、人と人とは相乗効果で大きく飛躍する。しかし、そのような良い反応が起こる事は少ない。現実は、人に会うたび自分が侵食され、気持ちを揺らぶされ、疲労感だけが残る事の方が多い。少なくとも、僕はそうだ。だから、個人でいる方を選びがち。そんな僕がそれでも会う人は、良い反応が起こりそうな匂いのする人だけ。20歳くらいから、僕はそうして生きてきた。間違ってるとも思わない。でも、100%正しいわけではないのかもしれない。
今回のボーリングで200を超えるハイスコアをたたき出せたのは、紛れもなく一緒にプレーをしたやつらのおかげだ。自分にとって敵わないと思うほどの、できれば避けたい(帰りたい)と思うほどの試練の中に自らを自らで置くことで成し得た奇跡だ。だから、まだ会ったことのない人と会うことは大事だ。でも、大事なんだけど、それは、分かってるけど、勇気を出して飛び込んでも、ほとんどの場合、打ちのめされて終了ということが多いのもまた事実。でも、数%。数%だけは、その試練に打ち勝ち、自分の能力を高めることができる。それが今回、僕自身によって証明された。
最初は噛み合わあい化学反応だった。それでも、じっくりじっくり時間と体力と精神力をかけて挑み続ける。すると、どこかで反応が変わる瞬間が来る、こともある。高校時代、アメリカンフットボーラーだった頃は、この感じを試合中に何度も味わっていた。この場でしか味わえない緊張感。一つのミスが引き起こす敗北という名の血の凍るようなプレッシャー。毎回逃げ出したい気分になって、それでも僕は試合に挑んだ。なぜなら僕のチームメイトは強かったし、頼もしかったから。小心者の僕を、強き者へと引き上げてくれるから。そう、あの感じ。試合の間だけだけど、僕は個人では到達できない高みまで昇ることができた。あの体験は、今の僕の強さに大きく影響を及ぼしている。
今まで生きてきて、一回でも”強き自分”に出会ったことが有るか無いか。
それが、人の”地の強さ”を決めているのだと、僕は思う。
個人で出来ることは高が知れている。それでも、できるだけ個人で生きていきたいと思う人もいる。そんな僕のような人間が、若いうち、時間と体力と精神力のあるうちにすべきことは、人(未知)と会い続けることなのかもしれない。そうすれば、何度かに一回は、また高みへ昇る体験ができるかもしれない。その場限りの飛翔だとしても、その瞬間に出会った”強き自分”は、自らの無意識の中に確実に蓄積されていく。確実に。そして知らず知らず、自分の血となり肉となる。自らを支える”地面”になる。僕らが高くジャンプしたり、早く走ったり、またゆっくりと安心して歩くためには強固な地面が必要だ。特に「個人で進もう」と決意した人には欠かせない要素だ。だから僕は、地を固める。今のままでも問題はないが、もっと高く飛ぶために。もっと早く走るために。もっと確実な一歩を歩くために。自ら雨を降らし、風を吹かせ、耕し、また整える。その繰り返しが未来そのものになる日まで。
 

表現者の苦悩の果てとは。

表現者の苦悩の果てとは。

 

僕(斗掻ウカ)は、TwitterTumblrとnoteでのみ「詩人です」と名乗っている。その理由は、やはりまだ「怖い」からだ。音楽や絵などに比べて、詩はクリエイティブの世界でまだまだ市民権を得ていないと感じる。しかも、名乗った時に変な印象を持たれやすい。(確証はないが)それは「誰でもやろうと思えばすぐできる(できそう)」というイメージや、いわゆる”ナルシスト感”が強いからではないだろうかと思う。あとは、音楽や絵などは”ながら”で消費できるのに対し、詩は一旦”読む”という作業に集中しなければならない。すごく短い本を読むのと同じだ。だから、まず本や活字を読む習慣のない人には1編すらも届かない。無理矢理届けたところで、そこに感動は生まれない。かといって、身内で盛り上がっているだけでは今以上の認知は得られない。つまり創作物としての価値がどんどん収束していく。このような連鎖が、詩が今ひとつパッとしない理由だと僕は考える。

 

実際、詩は文字さえ書ければ誰でも作れる。今すぐ作れる。俳句や短歌のように文字制限もなければ、季語を入れたり等のルールもない。思ったことを”それっぽく”言葉にすればいい。非常にインスタントでフリーダムな創作だ。まぁ、こだわれば何処までも時間とエネルギーを消費するのは他の創作と変わらないが。とりあえず”カタチ”にするまでのハードルが低い。そこが詩の弱い面でもあり、面白い点なんだけど。

 

また、詩は「上手い or 下手い」が判りにくい。そして「良い or 悪い」も判りにくい。詩は、どんな創作物よりも「好き or 嫌い」だけで判断できるし、そのシンプルさが市民権が得られない現状に繋がっているのかもしれない。努力(見せかけでも労力と時間とお金をかけた感じ)を完成品よりも評価されるのは納得がいかないけど、それでもやはり、人間の心理・真理的にはイージーカム・イージーゴー。作品に対して、その人がどれくらいの努力を費やしたのかが分かることは市民権を得る上では重要だ。これは一般論であり消費者の立場からの意見であるが、実際カタチにした時に見る人の直感に訴えるのはその努力の部分だ。これはもう、しょうがない。

 

僕は詩を書き始めてまだ間もないが、詩に限らず自分の好きな事でお金を稼ぎたいという思いはずっとある。(人間皆そうだと思うが)その為に、今現在【詩集】を創っていたり、【note】で投げ銭スタイルの投稿をしたりしている。まだまだ始まったばかりなので、収入らしい収入はないが可能性は意外と感じている。だから今はトライアンドエラー・アンドトライを繰り返すのみ。繰り返していく中で、とりあえず最初の目標にしているのがお小遣い程度(月に2〜3万)の収入を得ること。収入を目標にしている理由は、公の場(ネットの外の世界)で「詩人です」と口にしている人は、「詩でお金をもらっている人」以外では見たことがないから。だから僕にとって、いや一般的に職業として名乗るには、1円でもいいから自分の作品が売れる必要がある。ほんと、1円でもいいから。現時点で僕の詩集を予約していただいてる方が数名いらっしゃいますが、収入としてはまだ0円。その”目に見える報酬”があるかないかで、公の場に躍り出れるかどうかが決まる。少なくとも、僕はそう思っている。

  

その場所にたどり着くまでに何れくらいの労力を要するのか、何れくらいの時間が必要なのか、何れくらいの資金があればいいのか。そんなことは純粋な好奇心の前では関係ない。関係ないが、そう言い切れるほど純粋な好奇心で詩を書けてはいない。好きなことで生きていくことはそりゃあ理想だけど、自分が「三度の飯よりコレが好き!」と言い切れるものは今のところ何もない。詩は、現状それに一番近い存在だけれども。兎にも角にも、自信はあるけど、不安なのだ。まだまだ足りないものが多すぎる。日々、葛藤葛藤葛藤である。

 

そんな事を考えてたら、たまたま見たTumblr最果タヒさんがこんな言葉を記していた。

 

”詩は読まれないなんて、そんなことはないよって、ちゃんと詩は届くんだよって、私の詩を読んでくれる人たちが教えてくれました。詩集を出す勇気を、読んでくれる人たちにもらっています。私にとって最高の詩は、読んでくれる人と私との間に存在するもの。読んでもらえて、きっとやっと詩は完成するんです。”(最果タヒ.tumblrより)

 

なんだかグダグダと考えてた事の全てが、この文章に行き着く気がします。読んでくれる人。「いいね」と言ってくれる人。作品を買ってくれる人。それは、自分が悩んでどうこうできる次元の話じゃない。それこそ努力より”運”の世界の話だと思う。それでも、だからこそ努力は必要。公に名乗りたいとか、収入が欲しいとか、そういうこと以前に、「作品を届けてくれてもいいよ」って宛先が無条件にある現代の寛大さに感謝。僕にも僕以外の人にも、”自分の好き”を届けてもいい場所が無限にあるということ。それはとても、考えると楽しいですね。

 

作家で生きている人は、サラリーで生きている人とは”報酬に対しての考え方”が全然違う。僕は詩の面白さ以上に、その”作家としての生き方”に惹かれているのかもしれない。

 

「あの人たちと同じ世界に行ってみたい」

 

今日はとりあえず、この結論に落ち着いた。(完)

 

【10代に共感する奴はみんな嘘つき】

文學界4月号に掲載されている最果タヒさんの短編小説。

 

とりとめのない感情を原液のまま体内に流し込まれるような感動を得た。

 

最果タヒさんの小説は感情の密度が高く、先月読んだ「渦森今日子は宇宙に期待しない。」と同様、鮮明なカオスを纏っている。

 

主人公の唐坂カズハ(17歳・女子高生)は、一見キャラクターの中で誰よりも大人びていて聡明で、個人的には好きなタイプ。でも「10代」「女子高生」「学校」という檻の中では、その聡明さが全てにおいて枷となる。世界は理屈で成り立っていない。特に10代の世界なんて、理屈は無慈悲に悪とされ、正しさは愚かさとして処理される。物語の中で唐坂カズハが考えることや言動は筋が通っていて正しい。ただ、その正しさを裏付ける根拠や経験がまだないから、ひたすらに脆い。それでもそうして生きることしかできなくて、戦っているつもりがなくても戦いの渦に放り込まれて、傷つけられているつもりがなくても心は確かに傷ついていく。

 

「かわいそうなのは誰だ」

 

物語に登場する人は、みんなみんなかわいそう。「かわいそう」って言葉は自分がかわいそうって言われるためだけに有るって思ってて、それでいていざ面と向かって言われると全身で否定する。(お前ら何やねん)そう言いたくなる気持ちは正しい。そして自が愚かな人間にカテゴライズされていく。この圧倒的違和感、矛盾。誰一人とも会話が成立しない苛立ち。その葛藤をケーキやパフェに乗っけて、ぐちゃぐちゃにして食べて、奇跡でもない満月を見たら、まぁなんとなくオールオッケー☆

 

「「死んだらなんとかなるからこの世界はどこまでも不幸になってOKなのかもしれないね。」」(本文より)

 

いじめや自殺が日常にありふれている世界で、みんな驚くほど普通に生きている。理屈ではどうすることもできないから、この世界では理屈が悪。わかりきっている正解に「意味ワカンナイ」で蓋をして、恋をしてセックスをして喧嘩をしてご飯を食べる。10代という生き物のルールは全てが暗黙。聡明な光は何処にも誰にも届かない。ただ、それで何の問題もないのだ。

 

そう、何の問題もない。

 

世界の中でいじめがあっても自殺があっても、そこに意味なんて誰も求めてない。だからもう、そういう事でいいんじゃない?(え、どういうこと?)そこは暗黙のアレで、お約束のコレで、とりあえずノリで、ほらいい夢が見られるように、それだけを思って今日は眠ろう。

 

まさに10代。

 

慣れれば悪くないと思うけど、慣れる頃には20代だね。

 

とにかくみんな、自分なりの理屈で精一杯にその場しのぎで生きている。みんなかわいそうだけど、それが10代。青春と名付けられるに相応しい世代。  〈了〉

一生を越えても聴き続けたい。

だから墓場まで持っていきたい。

 

誰にも云えない秘密じゃなくて。

tacicaの音楽。

 

僕が「言葉の持つ可能性」に、生まれて初めて”感動”したバンド。 彼らの音楽を聴いた時、文字通り”感情”が”躍動”した。 表も裏も、光も闇も、本当も嘘も。 それら全てが在るが儘に描き出されている。血の通った声、言葉にならない言葉が、彼らの音楽には在る。 雄大な自然風景を眺めている時のような、そんな気にさせてくれる。 自然そのもののように存在しているから、 ただそれだけでいい音楽。 何時も聴いている。 僕の奥の方まで染み込んで、心の芯から安心できる。

 

僕はメッセージ性のある作品が苦手で、

僕はフォーマット化された感動が苦手で、

僕はフラットな正直者だけが好きなんだ。

 

だから僕はtacicaが好きで、好きというより日常だ。

 

聴き始めて5年くらい経つけど、驚くほど色褪せない。むしろ聴けば聴くほど変化して、深くなっていく。まるで職人が創った”一生モノ”の様だ。「様だ」というか、事実そうなんだけど。

 

当たり前を当たり前に歌う。

噓つきを噓つきのまま歌う。

心模様を心模様のまま歌う。

 

僕が詩を書く時も、tacicaを聴いている時の「あの感じ」を常に意識している。まだまだ全然うまくできてないけど、目指す感じは「あの感じ」だ。

 

tacicaについて語りだすと話が終わらない。

それに批評的に安易な言葉で語りたくない。

まだ彼らについて満足のいく文章が書けない。

なので語りすぎない程度にブログを終えます。

 

あとは曲を聴いてください。

 

全部一番好きな曲だけど、その中から一曲。

 

【DAN】をどうぞ。

 

www.youtube.com

 

作詞:shouichi igari(猪狩翔一

作曲:shouichi igari(猪狩翔一

 

何度でも転ぶ映画の為に
別に恐怖はなかったけど
そこに最期はいらなかった

使い掛けの熱に明日が融けて
古い道具に囲まれた僕は
何だか機械みたいだ

どこに行っても同じの景色が嫌い
だから その絵の具は逃げて消えたのさ

そう 今日も又 アナタのいない場所を
手当たり次第探す
どこかへ行っても良いかだなんて思わないさ
描けない夢なんてない
叶わない夢なんてない
って思ってたんだろう ひとり
残り全部の命を使って

誰も僕に映画は観ない
だから上手じゃなかったけど
ここに最期はいらなかった

星の光から眼を逸らすな
作業場にて 只 脳裏を描く
引き返そうにも宛がないから
悪魔に云われた通りの歩行
是が非でも云わないサヨナラ
それだけが動かした体でもっと行こう
特別じゃないから強い
あの星の光から眼を逸らすな

今日も又 アナタのいない場所を
手当たり次第探す
どこかへ行っても色褪せない理由
そう 描けない夢なんてない
叶わない夢なんてない
って思ってたんだろう ひとり
残り全部の命を使って

残り全部の命を使え

 

学生ノリ。

学生ノリ。

 

今から数年前。

僕が大学生だった頃。

 

地元の友達(7〜8人)で【ツキメン】という名の友達同盟を組んでいた。いや、一応まだ解散はしていないので現在進行形だ。(組んでいた ⇨ 組んでいる)男女比は半々くらいで、正直どういった経緯で集まったのか全く覚えてないし、それに学校とかで特別仲良くしていたわけでもないし、ただ、なんとなく「始まりの日に集まれた奴ら」という偶然(という珍しくない奇跡)によって繋がれた同盟なのだと思う。

 

【ツキメン】の意味は非常に単純明快で、『月に一度、このメンバーで集まって飲み会しようぜ!!!☆☆☆』ってだけの話。でも実際、全員がちゃんと集まれた回はほとんどなくて、メンバー内で不貞行為等があったり、空気読まない幹事系人間がしつこく全員を集めようとしたり、僕は最初の2〜3回くらいで既に飽きていたり、まぁ普通のアホな大学生たちの愚行ですねコレは。

 

で、あれから数年が経ち。みんな(肩書きは)大人になって、忙しくなって、自然消滅したのかな?と思っていたら、先日メンバーの一部でまた集まろうとかいうラインが来て、僕は(へぇ〜)って思ったんだけど、時間も貯金もあるし行ってみるか!と行ったわけです。

 

感想は。

 

「「特にないです」」

 

で、終わりたいんですけど。

 

ブログなので、強引に感情を拡大します。

 

と言っても本当に別になんてことなかったです。

強いて言えば、今こうして久しぶりにブログを書くネタができてラッキー★という感想が9割を占めますね。残りの1割で感じたのが、「みんな恋人が変わっていたり結婚していたり仕事をバリバリやっていたりしてちゃんと大人やってるなーと思いかけたけど話をしていると彼・彼女らからどうしようもない幼稚さが滲み出ていて何だコレと心の中で復唱しながら不快な違和感がブクブク膨張していく自分は何で今ココにいるんだろうとか自問自答癖が始まって意味不明な疎外感や劣等感みたいなものが生まれ始めたんだけど結局大学生の頃からこんな感じだったような気もしてきて途中からは早くこのモヤモヤをブログに書いてこ消化・消火・昇華したい!!としか考えられなくなって最後に飲んだシャンディガフが美味しくてそれだけがいい思い出でハイッ終わり」ってな事でした。

 

もうツキメンについては書くこと無くなったので、唐突にこの話を終わせようかなとも思ったけど、なんとなく書き足りないので補足にならない補足として下記の哲学を残しておきます。

 

 

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《人間関係はミルフィーユである》

 

”人”が生地で、”間”がクリームね。人間っていうのは、人(生地)と人(生地)は「一体」にはなれるけど、それは間(クリーム)があるおかげで、しかしながら、その間(クリーム)の所為で絶対に人(生地)と人(生地)とが交わることはないのです。

 

でも、それでいい。

 

それが美しいし、美味しいし、可愛いと思う。

 

人との距離感が分からない人。

君はいますぐミルフィーユを食べなさい。

 

食べる前によく観察をして、生地とクリームのコントラストを目に焼き付けて。それから生地とクリームを別々に食べてみて。(なんか違う..)と思ったところで、生地とクリームを一緒に食べてごらんなさい。それが君が求める答えだよ。

 

人(生地)は間(クリーム)があって初めて完成する。

 

人(生地)は固すぎても柔らかすぎても駄目で、

間(クリーム)は多すぎても少なすぎても駄目なんだ。

 

このことを肝に銘じておくといい。

 

きっと君のクダラナイ葛藤を、少しは甘くしてくれるさ。

 

 

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以上、僕の哲学を終わります。

 

ご精読ありがとうございました。

 

m(_ _)m

 

【渦森今日子は宇宙に期待しない。】

女の子にしか書けない小説。

 

最果タヒさんの小説《渦森今日子は宇宙に期待しない。》を読み終わった瞬間に、反射的にそう思った。最近流行り?の大きすぎるパフェを一人で食べきったような読後感。それから、自分でもびっくりするくらい誰にも感情移入できなかった★

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ファッションで例えると、この物語は終始KAWAII系ファッション。

 

あと、これは僕が男(24)だからだろうか。読んでいる間、ずーーー・・・っと(数年前まで学校とかで聞こえていた、また聞かされていた)あの女子たちの他愛のない、とても刹那的で、でもどこか永遠的で、退屈なようで真理をついているような、目まぐるしく回転する新品遊園地のコーヒーカップに搭乗しているような、あの三半規管に”くる”感じ。あれを感じさせられて若干目が回ってしまいました。

 

でもそれが最果タヒさんらしい、つまり女の子らしい小説だなーと思います。彼女の詩や小説はどれも本当に女の子で、根拠のない圧倒感をまとっていて「あわー〜〜」ってなるから好きです。共感を超えた「好き」を僕の中に植えつけます。

 

ブックレビュー的なもののお約束というか、「◯◯な人にオススメです!」みたいな個人的見解を述べるのであれば、この小説が似合うのは10代の、というか、あくまで一般的な10代の性質を持ち合わせている人、もしくは周囲からは結構能力高そうとか思われてるけど実際の私は意外と空っぽででもそれを悪いことだとは全然思ってなくてむしろ可愛くない?逆に!え?逆に可愛くなくなくない?こんなミステリアスな私可愛くない理由なんてどこにもなくない?!(嘘。でもでもやっぱり心臓の端っこの方ではやっぱりモヤモヤしてるから寂しがり屋なんです私!でも友達としゃべってアイスとか一緒に食べたらもう悩みなんてどっかいっちゃいまーす♪(てへぺろ)みたいな人が読んだら共感とかしやすいじゃないかな、って思います。別に作品という作品すべてに共感が必須だとは全然思ってないから(むしろ要らないと思ってるから)、◯◯な人にオススメします!って取り立てて言うことではないけども。だから、みんな好き勝手に自分が興味のあることだけに触れたらいいじゃん、ね!(自己完結)

 

それから、たぶん何名かの人は見落としがちな”帯”に綴られている大森靖子さんのレビューもいい。やっぱり女の子っていう生き物は【女の子同士】でしか分かり合えない、イルカとか(適切)コウモリとか(不適切)が出す、あの【チョーオンパ】みたいなビームみたいな何かを常に発信していて、女の子はみんなその不思議電波で繋がっていて、実は案外宇宙人で、それこそ正真正銘の男子禁制のスカートの中みたいな膜の中に存在している天然記念物なんじゃないかなーとか思ったり思わなかったりしました。(疎外感)

 

物語の具体的な設定や内容については2mmくらいしか触れていませんが、気になる方は「他の方のレビューを読む」か「買って読む」かしてください。(丸投げ)

 

売れ行き次第で続編?の可能性があるらしいので、是非☆

 

www.amazon.co.jp

 

 

静かな時間を愛するすべての人へ。

静かな時間を愛するすべての人へ。

 

Q.「静かである」というのは、あなたにとってどのような状況の時に得られる感覚ですか?

 

・一切の無音空間にいる時?、

・心地よい音だけが聞こえる場所にいる時?、

・静かな人と過ごしている時?、

・薄闇の中ひとりで眠っている時?、

 

人が「静かである」と感じるシチュエーションは様々あると思いますが、今僕が例として挙げたそれらは外因的な要素でしかなく、真に人が「静かである」と感じるのは、”精神が静寂している時”だと思います。心における説明できない現象は、突き詰めていけば全て内因的な問題によって引き起こされているのです。ただ、「精神が静寂している」ことを言葉で他者に説明することはできません。かといって、別に説明する必要もないので何の問題もありません。と、言いたいところですが。その”説明できない精神”を抱えているという状況は、常人にとって心の平静を失いやすい状況でもあります。つまりここに、人が静かな時間を愛する際の”ジレンマ”が発生するのです。人は、根っこの部分では”共感”を求めています。そこは絶対だと言い切ります。なので、たとえ「精神が静寂している状態」であったとしても、そこに共感がなければ心は騒ついてしまうのです。それはすぐに雑音となり、やがて騒音へと自分の中で膨張していきます。だから、精神が静寂していることを他者に説明して共感を得なければ、精神の静寂は完成しないということになります。しかし、そういった説明を思考すること自体、静寂に反する行為であり、元も子もない愚行です。そもそも「精神が静寂している」という感情でなくとも、感情そのものが他者に説明することは非常に難しい物体なのです。説明とは、自分一人で成立するものではないではありません。だからこそ、人は自分でも掴みきれない空気のような何か(つまり感情)を他者に説明するためにコミュニケーション能力を磨き続けるのだと思いますが、それも僕からすれば愚行でしかありません。ほら、これがジレンマです。そして以上の話から、僕が「精神の静寂」について立てた仮説はこうです。どん。

 

流動性を持った”時間”という概念こそが、人間に最も適した精神の静寂をもたらす鍵となり得る】

 

動き続けること、変わり続けること、流れ続けること。そういった、一見静寂とは真逆に位置するような概念や行為が、実は静かな時間を愛する人に必要なものだと僕は思います。とりあえず今は、そう仮定します。ただ、一つだけ注意すべき点があるので補足しておきます。それは、今述べた概念や行為に「特別な事」から得られるエネルギーを使用してはいけないということです。なぜなら「特別な事」、つまり何かしらの非日常的なイベントから得られるエネルギーを原動力としてしまっては、一瞬でそのエネルギーは枯渇し、あっという間に自分を前に進められなくなる。 よって、流動性を失うのです。これは主に僕の経験則から計算された自己中心的理論ではありますが、今この文章を読んでいる人には大方当てはまる話だと思いますのでこのまま進めます。僕がある時期から”ノリ族”や”テンション族”に距離を置いて接しているのは、そういった思想(トラウマ)があるからです。奴らは僕の精神の静寂を奪い、流動性を失わせる邪魔者でしかありません。話を戻しますと、 広義義な意味からいえば、現状を維持し続ける事だけが平穏と安寧につながります。それは僕にとっては間違いない。だからこそ動き、変化し、流れていかなければならないのです。それが僕の理想。精神の静寂を得る最善の方法。ただ、現時点でなんとなく分かってしまう事があります。それは、この理想が実現された世界はきっと脆いという事です。 そして、その予想される脆さは、そのまま自分への刃となって襲ってきます。 個人が讃える理想などは所詮その程度のものでしかなく、逆説的にいえば、人類はもう詰んでいるという話になります。 理想に行き場など無いのです。精神の静寂を求めようが何を求めようが、人はそのまま、その心から解放されることはありません。この世界に真実というものがあるとするなら、それに最も近い概念は”虚無”ではないでしょうか。それはできれば触れたくないもので、触れたところで何か掴めるわけでもありません。僕らは思考する能力を持った時から、この運命に辿り着くように仕組まれていたのでしょう。誰に?誰に?それもまた、虚無の中にしか答えはありません。

 

「静かな時間を愛するすべての人よ」

 

それを知っても尚、誰も自分の思想やジレンマに立ち向かう姿勢を変えようとしないのは、そこにあなた自身の【生命】を感じるからではないだろうか。「結局」と言って仕舞えばすべてに決着がつくことは分かる。でも、そういうことではないのですよね。あなたがあなたで在るための理由と自由は、誰かに定義されてしまうほど柔なものではないですよね。はい、その通りです。僕は今日、ここに行き着きたかったのかもしれません。今、一瞬。心が「静かである」と言っている気がします。そしてほら、また騒つきだした。楽しいですよね、こういう遊びは。あなたも僕も、いつかまた何処かで逢える気がします。その時はどうぞ、この一瞬をまた一緒に目指してみましょう。今日はお付き合いいただきありがとうございました。一応言っておきますが、基本的に僕のブログに根拠や整合性はありませんので悪しからず。

 

さぁ、

それでは、

エネルギーが、

もう、

切れそう、

なので、

ぼちぼち、

寝ますね、

おやすみなさい。

 

どうか皆さん、良い夢を。

 

fin.