遠浅の死海。

文字の海に溺れて死にたい。幸福の国。

青春に殴られてこい。

これは結論から言うと、

否、むしろ結論だけで良いかもしれないが。

 

「劇場版フリクリ オルタナ

 

最高に青春だから、黙って映画館で殴られてこい。

 

以上。

 

以下、補足。

 

物語は地球星にて、群像劇の舞台は日本国。

主人公はカナブン、ペッツ、モッさん、ヒジリーの、たった4人のセブンティーン。

そして宇宙人のハルハラ・ハル子。(※永遠の19歳)

 

女子高生というのは、本当に絵になる生き物だと改めて思った。

 

傍目には平凡で平和な生き物にしか見えないのに、一人一人が内側に抱える「自分」は、とても複雑で、純粋で、卑怯で、優しくて、脆くて、絶対に交わることはない。

 

まるで青春の権化のようだと、この作品は彼女らを最大級に暴れさせていた。

 

永遠とか、そんな刹那的な理想なんて何処にも在るはずない。

そんな事はきっとみんな解ってるし、誰も解ってない。

 

そうやって右脳と左脳を行ったり来たりしながら、心と体がバラバラになりそうになりながら、観客としてフリクリの世界から不意打ちをくらう。

 

一瞬一瞬がどうでもよくて、かけがえのない無意味な宝石。

 

兎にも角にも、この僕の文章のように、とりとめもなく、文脈のないストーリーが繰り広げられていく訳だが、そんな作品の“関節”となるのが、言うまでもない“ハルハラ・ハル子”だ。

 

何も前知識は要らない。

 

全く意味がわからないかもしれない。

 

けど、平成最後の、二度と戻らないこの季節に。

 

一発殴られてみるのも悪くないだろう。

 

全てのツマラナイ人間へ。

 

フリクリは「叫べ!」と掻き鳴らす。

何か大きな決断をするとき

何か大きな決断をするとき

 

今、君が身をおいている場所から、どこか目指したい場所へ(例えばオーディエンス側からプレイヤー達が闘うフィールドへ)最初の一歩を踏み出す瞬間───

 

最後の最後で足踏みするか、一線を踏み越えられるかどうかを決めるのは、今までに君の胸を熱くしたものだけだ。

 

胸を熱くしたものは何だっていい。本当に何だっていい。

 

好きな漫画やアニメの、あのキャラクターのあのセリフ、

何度でも観たい映画のあのシーン、

昔出逢ったあの人に言われたあの一言、

生涯忘れないであろうあの景色、音楽、

日常のふとした瞬間の光、

人間の純粋な感情や行動(善意や悪意も含めて)、

 

思い出せるだけ思い出す。

 

その一つ一つが、あの日の君を一瞬でも、確かに熱くさせたこと、胸の奥を震わせたことを思い出す。

 

そういった確かな記憶だけが、伸るか反るかの狭間に立った君の背中を否応なしに押してくれる。

 

これは情熱的な・感情的な話ではない。

 

ただただクールに、ロジカルに。そういう事実が現在の自分を形作っているのだという、リアルな血の気配と鼓動を再認識するということ。

 

 

自分と向き合うというのは、口で言うのは簡単だ。

 

皆、向き合うという言葉に騙されがちだが、それは単純に、鏡の前に立つことではない。(もちろん、比喩的な意味も含めて)

 

自分と向き合うというのは、無意識の底なし沼へ、真っ暗な海底へ、息が続く限り、深く深く潜ることだ。

 

マリンスノーのように降り積もった自分の破片を、何度も何度も目に焼き付けることだ。

 

意識がフッとぶ寸前まで、何度も何度も目に焼き付けることだ。

 

そうして再び海面へ顔を出し、束の間の息苦しさから解放された瞬間、漠然と言う名の不安は消える。

 

目の前を覆っていた靄が晴れる。

 

気付いた時にはもう、君は向こう側にいるだろう。

 

そうして陸に上がった後は、自分の足で一歩ずつ、前へ前へと歩いていくのだ。

自分の未来と真正面から向き合う方法

今日、母からラインが来た。

 

地元の図書館司書の求人(正社員)の募集が出てるから受けてみたら?という内容だった。

 

というのも、僕は一昨年の今頃、司書になりたくて3ヶ月間だけ猛勉強して、一気に資格を取得している。実際、今でも“本”というものに対しては興味はあるし、司書という職業も面白そうだなと思う。

 

けど、まぁ、所詮その程度なのだ。

 

興味がある、とか、面白そう、とか。その程度の好奇心で僕は、20代の貴重な一夏とそこそこの大金をぶっこんで当てのない未来へ投資する事ができた。その資格を今活かせていない事に対しては、少し勿体無いなぁとは思うけど、別に、全く後悔はしていない。ただ、我ながら(今よりも遥かに)馬鹿だったなぁと思う。

 

でもさ、若い時はだいたいみんな馬鹿じゃないですか。

 

馬鹿だからこそ無謀になれて、馬鹿だからこそ夢を見れて、馬鹿だからこそ挑戦できて、馬鹿だからこそ見返りのない努力もできた。それはそれで美しいと思う。そんな過去が僕にはある。

 

それを踏まえて、僕が今日、何を言いたいのかというと。

 

過去、自分の意思で“投資”してきた「時間」「お金」「人間関係」含む、あらゆる経験は、ある一定の時期に達すると自分を決めつける【宗教】に変わる。世間一般に、思い出とか美談とか言われているものだ。

 

確かにほとんどの人間には、そういった“自分教”が必要だ。何故ならそれはそれぞれの帰る場所であり、生きてきた!という証明であり、最後の最期、どうしようもなくなった時に救いになる(もしくはトドメを刺してくれる)ものだから。

 

だから僕は人間の持つこの生き様特性を否定はしないが、ふとした時に自分教にとらわれて仕舞っている状態の人に触れると内側から嫌悪感が溢れてくる。理由は単純で、僕は未来を生きたい人間なのに、自分教は過去しか内包してないから。もっと言うと“今”すら無い。

 

それって死よりも怖いものだと思いませんか。

 

今を生きる!とか、未来だの希望だのを必要以上に声高に唱えたいとか言ってるわけではなく。僕はシンプルに飽きっぽくて、常にカオスで新鮮な状態でありたいのだ。

 

母からのラインを受けてそんな嫌悪感を抱いてしまったが、おそらく母は自分教にとらわれているわけでもなく、ただただ僕が今の仕事よりも司書になれた方が幸せだろうから、こんなチャンス見つけたから教えてみたよ〜くらいのノリだったのだろう。でも申し訳ないが、僕はそんな風に感じてしまった。だって正直、転職して図書館で働くことなんて、今の環境を手放してまでチャレンジする事ではないと思ったし、色んなものを天秤に掛けて考えても実際そうだ。

 

だから、母にはそのようなことを伝えた。

 

過去、どれだけ何かに投資したとしても、それが今の自分に関係があるかと言われたら、僕の場合はほとんど無いと言える。小学校時代、真面目一辺倒で何も疑わず大人の言う事に従っていたことも、中学校時代、自分を中心に世界は回っていると本気で思い込んで全てに前向きに取り組んでいたことも、高校時代、アメフト部に入って血反吐を吐きながらも今が青春の全盛期だと信じ切って体をボロボロにしたことも、大学時代、無理をしてチャラけて、その反動で鬱っぽくなって、それでも自分は正しいのだと疑わず中二病をこじらせたような気持ち悪い成人になったことも。

 

全て、今の僕には関係無い。

 

積み重ねて来た過去は、ただの過去だ。それ以上でも以下でも無い。

その過去に意味をつけたり、言い訳として利用するのは今の自分だ。

 

僕らが自分の未来と真正面から向き合う方法はただ一つ、過去と今を完全に切り離すこと、それしかない。

 

実際「君はそれが出来ているのか」と言われたら、あまり自信はないけれど。気持ちとしては、そう在りたい。

 

こんな似非哲学みたいな文章を書いてしまうのは、最近、自分の将来とか今改善すべき課題みたいなものについて、前よりも深く考えようとしている所為かもしれないが、なんか、また変化してるのかな。

 

でも、変化していると少しでも感じれる事は、少なくとも過去には生きていないということだと思う。これからの時代とか、正直よくわからない事ばかりだけど、過去になっていく様々を、これから自分が投資していく様々を、今や未来を意味付ける宗教にはしたくないなって、今日はそんな話です。

 

前向きに生きる事は、よく過去を受け入れて云々・・みたいに語られるけど、本当に前しか見てないのなら、過去という概念はその人の内側には存在しないはずではなかろうか。

 

あなたが過去を考えるとき、僕の哲学をどう思うのでしょうか。

 

んーー、難しい話になってしまいそうなので、以上、終わりと致します。

ガラスの卵

自意識は「ガラスの卵」だ。

僕ら、誰もがその中で生きている。

 

ガラスの厚さや強度は人それぞれで違うけど、下記2点の特性はすべての卵に共通している。

 

・他人からは中身が丸視え

・内側からは外が視えない

 

つまりマジックミラー的なもの。

 

上下左右、360度、どこに目を向けても歪な自分が写るだけ。

 

俗に言う“成長”とは、このガラス(カラ)を破って卵の外に出ることだ。でも、出たら出たでまたすぐに、もっと大きなもっと強固なカラに覆われる。世界は少しだけ、広くはなるけど。

 

僕らは、ある一定の年齢までは、義務とか夢とか見栄とか希望で、半自動的にカラを破れる。放っておいても体が大きくなっていくし、それに伴って無意識にカラを突き破っていける。

 

でも、ある一定の年齢を過ぎれば、自ら“意識的に”カラを破って行かないと成長は、世界の拡張は停止する。それでも別にみんなそうだし、生きて行く分には特に支障がないもんだから、誰もカラを破って外に出ようとは思わない。

 

だってこのカラはガラス製だし、中身の自分は丸裸だし、ヒビを入れるにも、穴を開けるにも、パワーも勇気も体力も要るし、それに比例した疲労や痛みを伴うし、やっと小さな穴を開けられても、その瞬間に破片が全身に降ってくるし、出口もトゲトゲで、出て行けたとしても傷もいっぱい負うし、全身が血まみれになるし。

 

ってな感じで(もういいや)って結論になる。それは当然、おそらく正しい感覚だ。だからほとんど誰もが死ぬまでガラスの卵の中で生きる。

 

ただ稀に、完全にカラの外に出て、自由に羽ばたいて飛んで行く人もいる。すごい人だ。すごい人だと思うけど、自分はそこまでして飛びたいとは思わない、、思わない、、??、、思わないかは、わからない。まだまだ幾重にも覆われた、このカラの内側にいる間は。

 

自分という意識は、このガラスに反射した事実であり幻想だ。とても不確かで、でも、どこまでも現実だ。

 

僕らは何かに囚われてないと、きっと怖くて動けない。矛盾しているようにも思うけど、羽ばたいている人を視る度に、何故か何故だかそう思う。

 

ガラスの卵は僕らを護るための盾でもあるけど、僕らを閉じ籠める牢でもあるのだ。

 

だから、じゃあ、どうすればいいのか。

 

それは自分で決めればいいし、自分にしか決められないこと。だって、生きていけるのだから。別にカラを破らなくたって、赤い血を流さなくたって、まだ視ぬ世界で飛べなくたって。このままで、その中で、生きて、生きていけるのだから。

 

なんか、そんな事をね、考えた。

 

拳を強く、戸惑いながらも強く、弱く、握りしめて。

 

一発、このカラ、殴ってみようか。

その前に久しぶりにブログでも書こう。

 

とりあえず、そんな夜のお話でした。

TLFJ.

変わらないために、変わり続けるために。

 

好きなバンドのLIVEって、どうしていつも最高なんですかね。

 

✳︎

 

あの日。はじめて彼らの音楽を身体で聴いた日。どうしようもない感動に襲われたことを思い出した。 

 

誰が最初に言ったのか。

 

tacicaの曲は、どれも褪せない』

 

確かにそうだ。新曲も旧曲もない。過去も未来も、彼らにはない。それはつまり、何時だって“現在”にいるということなのだろう。

 

日常を生きていると、何時の間にか日常に取り込まれて仕舞うのが人間の世界。その自分という日常を、◯か✖️かで評価するだけになる。そんなかさぶたみたいに固まった日常に問いを投げる、そんな直球で誰にも分からない答えを彼らは唄う。

 

何を書いてるのか分からない。
でも、それが本当なのだ。

 

✳︎

 

久しぶりに聴いた彼らの音楽は、あの日とは少し違って観えた。でもやっぱり、最高以外の何物でもなかった。

 

変化って、何なんですかね。成長も停滞も退化も全部。そのモノや、そのヒトの、そのトキでしかないじゃないですか。点と点と点でしかないじゃないですか。

 

時間というのは不思議なもので、水の流れに意味を持たせた。本当はそんなもの、あるわけないのに、ね。

 

今を生きる、とか言うと。急に俗っぽくてダサくなるけど。生きてるって事実は、常に今しかないんだよ。その当たり前を証明できるのは、本当に、今しかない。だから“今を生きる”って変な言葉だ。僕らの“生”は“今”にしかないのに。

 

そんなことを思いながらの2時間ちょっと。また行こうと思えた今が、ここにあります。変わらないために、変わり続ける。今日の僕も、いつかまた、きっとどこかで。

 

fin.

敗北の美学(男って馬鹿なんだから)

(前置き)

敗北には、その”人となり”がよく現れる。

 

 

最近たまたま見たテレビで、あるタレントさんがギャンブルについてこう話してて。

 

「いや、もちろん勝ちたいとは思ってますよ。勝ったらヨッシャー!ってなりますし。でも、こころのどっかで”打ちのめされたい”っていう、なんかこう、自虐的な快楽?みたいなもんもあって、それを求めてしまってる自分もいるんですよ」

 

僕はギャンブルは一切しないけど、”この感じ”は何故かすごく共感できる。これは僕が男だからなのか、僕が僕だからなのかはわからないけれど、前置きで書いた一文に要約されると思う。

 

敗北には、負けたその人の”美学”が強く現れる。

 

勝者ばかりがフィーチャーされてしまう世の中だけど、ほとんどの人は人生の中で”負けること”の方が圧倒的に多いはず。いわゆる(その他大勢)の一部になる方が。僕も今のところはその中にいるし、だからこそ僕にとってのリアルは勝利よりも敗北の中に在る。

 

勉強やスポーツ、容姿や資産、人間関係などなど。僕らは生まれた瞬間からあらゆるジャンルの競争の海へと放り出される。そして、よほどの先天的な優位性がない限り、否応なしに敗北を重ねていく。後に努力や運で多少の挽回はできるにせよ、無垢な頃に味わった”負けた”という記憶はずっとずっとその人の中に遺り続ける。

 

そんな鈍色の十字架を背負った僕らをカタルシスへと誘ってくれるものが芸術であると、僕は思う。そして、僕を一番はじめにカタルシスへと誘ってくれた芸術が少年漫画やアニメだった。あの仮想空間の中では勝者と敗者がハッキリと分かれている。主人公と呼ばれる者は必ず勝つ。その者に味方する者たちも含めて。

 

多くの人(特に幼い頃)は、勝者(主人公)に意識を向け、憧れるだろう。ONE PIECEの麦わらの一味しかり、NARUTOの木の葉隠れの里の忍者たちしかり。しかしながら、僕はそうじゃなかった。僕は昔から敗者側に立って、ストーリーを追っていた。主人公のライバルや絶対悪とされる敵こそが、僕を強くしてくれるヒーローだったし、ものすごく憧れた。

 

小さい頃から自分ではよく分からないまま「いい子だ、いい子だ」と言われ続けて、勉強もスポーツもそこそこ出来てしまった僕はそのまま「いい人」であり「優等生」になっていった。当時の僕はそれが心地よかったのだと思うし、そう在ることが僕であることなのだと思っていた。敗者や悪に憧れる感情を抱きながらも。

 

そして僕が20歳を過ぎた頃、急にメンタルがショートした。意識高い系を無意識に演じ続けてきた反動で、僕の感情エンジンは完全にエンストを起こしたのだ。この話は前にも何度か書いたし話すと長くなるので割愛するが、つまり誰もが一度は経験するであろう人生最大級の敗北・・【挫折】を経験したのだ。

 

それから半年以上、自分の部屋から出られなくなった。心も、はっきりと壊れる感触がした。意識が本当にモノクロになって、ほとんど死んでいるのと変わらない状態にまで陥った。その時の記憶はあまりないが。僕は、どこかで”安心”していた。生まれて初めて、ちゃんと”敗北”を味わえたことに。

 

幼い頃から敗者に憧れ、それに救われてきた僕だったが。負けることは醜く、自らの価値を否定するものという外部から侵略してくる概念に、いつの間にか覆われてしまっていたらしい。それは水と油のように、僕の中で対立を続け、容器が割れてしまうまで止めることはできなかった。

 

だから、取り返しがつかなくなる寸前まで追い詰められて、生まれてはじめて、僕は負けた。敗者になった。それは他人から見てどうこうという話ではなく、あくまで僕自身の閉じられた世界の話ではあるが。あの経験は自分の人生に於いて最大級に意味のあるものだと、心の底からそう思う。

 

それから何が変わったか。詩を書くようになったり、人付き合いが悪くなったり、サブカルやメンヘラというワードが日常の中に溢れたり。とにかく、まぁ、ちょっと変になった。もう、以前ほどいい人ではないし、優等生でもない。時々、壊れる前に戻りたいと思うこともあるけれど、遅かれ早かれ今と変わらない自分になっていたとも思う。

 

敗者とは、ひとりの人間を構成する上で欠かせない”要素”だ。

 

一度も負けたことの無い人間などいないだろうが、もしそんな人がいたらきっと、すごく薄っぺらい人間だろう。負けて、そこから立ち上がろうとした経験のない人、「逃げなかった」という記憶を自分の裡に持っていない人。そんな人は、きっと脆い。ツマラナイ。20歳以前の僕みたいに。

 

・・・。

 

あれ、、なんでこんな話になってるんだ、、?(・△・)

 

書き始めた時は、もっと、こう、かる〜い感じで、ペンパイナッポー!ペンペンペン!みたいなノリでまとめようと思ってたのに。いつの間にか超お堅い文章になってるじゃん。

 

あのですね、僕がこのブログで言いたかったのは、まぁ、アレですよ。

 

自分が死ぬ時は《道に飛び出した子どもをかばって死ぬ》とか《宿敵(いないけど)と決闘とかやって負けて死ぬ》とか、まぁ昔の漫画やアニメでありがちなベッタベタなスチュエーションで死にたいなーみたいなことを「男って馬鹿だよねー。」って感じで書きたかった、はずかったのに。

 

僕は小説とか漫画をかいても絶対に伏線は回収できないタイプの作家になるでしょうね。だから(と言ったらすごく語弊があるけども)詩を書いてるんだと思う。⇦あくまで僕の話ですよ。

 

最近、こういう長文を書いてなかった所為もあって途中から混乱してきますね、これ。来年からこのブログと並行して【LINEブログ】も始める予定なのに、先行き不安だー。

 

【URL】

http://lineblog.me/keita1991/

 

でも来年も書きたい時に書きたい様に書けるだけ全部を書いていくぞー、おー。

宇宙に浮かぶ天秤に乗って。

 
今日、面接に行ってきた。

でも、その場で辞退した。
 
 
僕は来年、《世界文庫アカデミー》という不思議な学校に通うことが決まっている。一年間、毎週”土曜日”に授業がある。
 

sekaibunko.com



ほとんど直感だけで入学を決めたけど、実際、今すごく迷いがある。学校に行くことに、ではなくて、なんというか、こう、漠然とした“何か”への不安。

家族のことや自分のこと。その他もろもろの突発的な出会いや感情のブレ。正直、今はめちゃくちゃしんどい。

何より“安定”というものに対しての曖昧な認知が、僕をそうさせているのだろう。

 
 

今年はいろいろあったから。
広告代理店を辞めて、バイトをしたり、資格を取ったり、自費出版で本を出したり、びっくりするような出会いもあった。後悔していることは何一つないけれど、それでも、なんか、『本当にこれでいいのか』って声が、いつも頭の中を反芻している。

僕は昔から【0 or 100】で物事を考えてしまう癖がある。世界は認識しきれないほどの多様なグラデーションで成り立っていることは分かってる。頭では。理想を叶えるには、理想以外の物事をひとつひとつクリアしていかなくちゃいけないことも。でも時々、理想なんて僕にはないんじゃないか?って思う時がある。それは砂漠の中で蜃気楼を目指しているような気分だ。昔からそう。本当に馬鹿だよなぁ自分って思う。

それなのに、そんな中でも歩き続けて、求め続けてしまうのだ。自分にとって特別な“何か”が“何処か”に在るような気がして止まないから。当然、そんな生き方は往々にして傷付くし、相当キツい。それでも僕はまた来年、《世界》に対して挑むのだ。
 
 
 

なんで?って訊かれても。
しらん。って答えるしかないけれど。

今はまだ守りにはいる時じゃない。
攻めないと。ダメなんだって。

僕にしか分からない感覚を信じて、信じて次に進むしかない。
だって、今までもそうしてきたから。
 
 
 

いつまでこんな青臭い戯事を言い続けるんだろうって。いつになればこんな自意識の渦から抜け出せるんだろうって。ほんと、自分でも笑えてくるけど。真剣に、真っ直ぐにしか生きられない人間だから。しょうがないよね、きっと。うん。

アカデミーを卒業する頃には絶対に、『今までで最高の一年だった』って、自然に言えるようになっていたい。まぁ、なってなくても、それはそれでいいんだけどね。意気込みとしては、そんな感じ。
 
 
 

でも確かな事が、ひとつある。
自分で自分を( ツ マ ラ ナ イ 人 間 だ )って思いたくはないんだよ。
虚勢でも何でも、自分で自分を楽しめる人でいたい。
それがとりあえず、今の夢。

自分が大好きなんだなー、僕は(´ー`)

 
 


冒頭の話に戻るけど。
あの面接、辞退しなければ多分受かってた。そしたら来年からは、僕の口座に毎月25万円が振り込まれる。資格を取ったり、仕事ができるようになれば給与は上がる。残業代やその他の制度、福利厚生も申し分ない。家族や友人にも自立していると胸を張れる。
ただ、”土日”があまり休めない。それだけ。
それだけの理由で辞退した。
世界文庫アカデミーという、不確かな未来を優先したのだ。
 
 

馬鹿でしょ?笑

社会ナメてるって思うでしょ?笑

家族や若さに甘えてるって思うでしょ?笑

うん。まったくもってその通りだし、僕も心底そう思う。それでも『土日の休みは保証できませんけど、大丈夫ですか?』って訊かれた時に、すぐに『YES』と言えなかった事実だけが現実だから。何かを自分で選ぶってことは、多分一生、そういうことだから。


 
 

あー、なんか疲れたなー。

帰りの混んだ電車の中。正面扉のガラスの中にスーツ姿の自分が映る。似合ってないね。そうでもないよ。イヤホンから流れる声が、当たり障りのない癒し。これからみんなで家に帰るね。これからみんなは家に帰るね。ため息をうっかり吐きそうな彼を見て僕は、『大丈夫だよ』ってエールを贈った。
#詩
今日もみなさん、お疲れ様です。
 
 
 
 
P.S.
僕の一番好きなバンドの、僕が一番最初に出会った曲。
僕が詩を書くきっかけは、おそらく彼らの言葉と音楽。
それくらい影響を受けて、日常の節目に必要な熱源だ。
なんとなく来年の自分に、この歌を聴き続けてくれと。
今日の12月の帰り道で、そう強く心に響いた冬の事。
 
 
 
 
この歌がきっと、僕にとっては全ての始まりだったから。