遠浅の死海。

文字の海に溺れて死にたい。幸福の国。

ガラスの卵

自意識は「ガラスの卵」だ。

僕ら、誰もがその中で生きている。

 

ガラスの厚さや強度は人それぞれで違うけど、下記2点の特性はすべての卵に共通している。

 

・他人からは中身が丸視え

・内側からは外が視えない

 

つまりマジックミラー的なもの。

 

上下左右、360度、どこに目を向けても歪な自分が写るだけ。

 

俗に言う“成長”とは、このガラス(カラ)を破って卵の外に出ることだ。でも、出たら出たでまたすぐに、もっと大きなもっと強固なカラに覆われる。世界は少しだけ、広くはなるけど。

 

僕らは、ある一定の年齢までは、義務とか夢とか見栄とか希望で、半自動的にカラを破れる。放っておいても体が大きくなっていくし、それに伴って無意識にカラを突き破っていける。

 

でも、ある一定の年齢を過ぎれば、自ら“意識的に”カラを破って行かないと成長は、世界の拡張は停止する。それでも別にみんなそうだし、生きて行く分には特に支障がないもんだから、誰もカラを破って外に出ようとは思わない。

 

だってこのカラはガラス製だし、中身の自分は丸裸だし、ヒビを入れるにも、穴を開けるにも、パワーも勇気も体力も要るし、それに比例した疲労や痛みを伴うし、やっと小さな穴を開けられても、その瞬間に破片が全身に降ってくるし、出口もトゲトゲで、出て行けたとしても傷もいっぱい負うし、全身が血まみれになるし。

 

ってな感じで(もういいや)って結論になる。それは当然、おそらく正しい感覚だ。だからほとんど誰もが死ぬまでガラスの卵の中で生きる。

 

ただ稀に、完全にカラの外に出て、自由に羽ばたいて飛んで行く人もいる。すごい人だ。すごい人だと思うけど、自分はそこまでして飛びたいとは思わない、、思わない、、??、、思わないかは、わからない。まだまだ幾重にも覆われた、このカラの内側にいる間は。

 

自分という意識は、このガラスに反射した事実であり幻想だ。とても不確かで、でも、どこまでも現実だ。

 

僕らは何かに囚われてないと、きっと怖くて動けない。矛盾しているようにも思うけど、羽ばたいている人を視る度に、何故か何故だかそう思う。

 

ガラスの卵は僕らを護るための盾でもあるけど、僕らを閉じ籠める牢でもあるのだ。

 

だから、じゃあ、どうすればいいのか。

 

それは自分で決めればいいし、自分にしか決められないこと。だって、生きていけるのだから。別にカラを破らなくたって、赤い血を流さなくたって、まだ視ぬ世界で飛べなくたって。このままで、その中で、生きて、生きていけるのだから。

 

なんか、そんな事をね、考えた。

 

拳を強く、戸惑いながらも強く、弱く、握りしめて。

 

一発、このカラ、殴ってみようか。

その前に久しぶりにブログでも書こう。

 

とりあえず、そんな夜のお話でした。