遠浅の死海。

文字の海に溺れて死にたい。幸福の国。

品格ある灰色。

僕の直感は、そう評した。

カニエ・ナハさんの詩集、【用意された食卓】を
読んでの感想です。
 

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あてもなく乗り込んだ、土曜日の普通電車内で読みました。

・・・。
 
詩との、関わり方は難しい。

油断すると、すぐ眠くなる。

かといって、眼力込めて読むものでもない。ような気もする。

起承転結があるわけでもなく、何か知識を得たり、教養を深めるためでもない。

ただ、詩人という人間の心象風景の断片を見て、(あー。と感動するくらいだ。

だから、本というカタチで存在するより、Twitterのように“ぽんっ”と可視化できる気軽いカタチの方が、関わり方としては理にかなっているのかもしれない。
 
仰々しく、有り難がるよりも。
重々しく、腰を据えて向き合うよりも。
もっと日常のBGMレベルまで馴染ませられないものか。
 
それがいいのか。
ただしいのか。
ただしいとかかんがえちゃってだいじょーぶなのか。

さぁ、わからない。

では何故、人は言葉を本にするのか。
そして何故、人は本を買い、言葉を読むのか。
それはやはり、『実体として触れたいから』だと思う。

言葉は見せ方で受け取り方が大きく変わる。誰が言うのか。何時言うのか。何処でいうのか。何の言語を使うのか。フォントは、行間は、文字の色は、大きさは。そして、受け手がどのような状態であるのか。細分化していけば、見せ方のパターンは無限に在る。発信者としては、見せる以上は「魅せたい」と思うのは当然で、でも、そこは完璧にはコントロールはできない。人間が持つ能力と評価が対等になることは稀だ。それは分かってる。それでも独り善がりにならないように、でも出来るだけ自分を出したい。そんな思考の摩擦の末に、本という選択肢が存在する。こんな小難しく考えなくてもいいかもしれないけど、モノづくりに関わると否が応でも考えてしまう。難儀だ。
 
何が言いたいのか分からない。
僕は今、とても眠い。
 
詩集の感想を何も書いてませんが、タイトルが全てです。
最果タヒさんとか、好きな人は好きだと思います。
よろしくどうぞ。
ーー 追伸 ーー

僕の処女作となる詩集【℉】も順調に出来上がりつつあります。
僕が詩人と名乗る以前の作品も多数掲載しております。
勢い重視で圧力高めの作品に仕上がる予定です。

 

お楽しみにー*