遠浅の死海。

文字の海に溺れて死にたい。幸福の国。

表現者の苦悩の果てとは。

表現者の苦悩の果てとは。

 

僕(斗掻ウカ)は、TwitterTumblrとnoteでのみ「詩人です」と名乗っている。その理由は、やはりまだ「怖い」からだ。音楽や絵などに比べて、詩はクリエイティブの世界でまだまだ市民権を得ていないと感じる。しかも、名乗った時に変な印象を持たれやすい。(確証はないが)それは「誰でもやろうと思えばすぐできる(できそう)」というイメージや、いわゆる”ナルシスト感”が強いからではないだろうかと思う。あとは、音楽や絵などは”ながら”で消費できるのに対し、詩は一旦”読む”という作業に集中しなければならない。すごく短い本を読むのと同じだ。だから、まず本や活字を読む習慣のない人には1編すらも届かない。無理矢理届けたところで、そこに感動は生まれない。かといって、身内で盛り上がっているだけでは今以上の認知は得られない。つまり創作物としての価値がどんどん収束していく。このような連鎖が、詩が今ひとつパッとしない理由だと僕は考える。

 

実際、詩は文字さえ書ければ誰でも作れる。今すぐ作れる。俳句や短歌のように文字制限もなければ、季語を入れたり等のルールもない。思ったことを”それっぽく”言葉にすればいい。非常にインスタントでフリーダムな創作だ。まぁ、こだわれば何処までも時間とエネルギーを消費するのは他の創作と変わらないが。とりあえず”カタチ”にするまでのハードルが低い。そこが詩の弱い面でもあり、面白い点なんだけど。

 

また、詩は「上手い or 下手い」が判りにくい。そして「良い or 悪い」も判りにくい。詩は、どんな創作物よりも「好き or 嫌い」だけで判断できるし、そのシンプルさが市民権が得られない現状に繋がっているのかもしれない。努力(見せかけでも労力と時間とお金をかけた感じ)を完成品よりも評価されるのは納得がいかないけど、それでもやはり、人間の心理・真理的にはイージーカム・イージーゴー。作品に対して、その人がどれくらいの努力を費やしたのかが分かることは市民権を得る上では重要だ。これは一般論であり消費者の立場からの意見であるが、実際カタチにした時に見る人の直感に訴えるのはその努力の部分だ。これはもう、しょうがない。

 

僕は詩を書き始めてまだ間もないが、詩に限らず自分の好きな事でお金を稼ぎたいという思いはずっとある。(人間皆そうだと思うが)その為に、今現在【詩集】を創っていたり、【note】で投げ銭スタイルの投稿をしたりしている。まだまだ始まったばかりなので、収入らしい収入はないが可能性は意外と感じている。だから今はトライアンドエラー・アンドトライを繰り返すのみ。繰り返していく中で、とりあえず最初の目標にしているのがお小遣い程度(月に2〜3万)の収入を得ること。収入を目標にしている理由は、公の場(ネットの外の世界)で「詩人です」と口にしている人は、「詩でお金をもらっている人」以外では見たことがないから。だから僕にとって、いや一般的に職業として名乗るには、1円でもいいから自分の作品が売れる必要がある。ほんと、1円でもいいから。現時点で僕の詩集を予約していただいてる方が数名いらっしゃいますが、収入としてはまだ0円。その”目に見える報酬”があるかないかで、公の場に躍り出れるかどうかが決まる。少なくとも、僕はそう思っている。

  

その場所にたどり着くまでに何れくらいの労力を要するのか、何れくらいの時間が必要なのか、何れくらいの資金があればいいのか。そんなことは純粋な好奇心の前では関係ない。関係ないが、そう言い切れるほど純粋な好奇心で詩を書けてはいない。好きなことで生きていくことはそりゃあ理想だけど、自分が「三度の飯よりコレが好き!」と言い切れるものは今のところ何もない。詩は、現状それに一番近い存在だけれども。兎にも角にも、自信はあるけど、不安なのだ。まだまだ足りないものが多すぎる。日々、葛藤葛藤葛藤である。

 

そんな事を考えてたら、たまたま見たTumblr最果タヒさんがこんな言葉を記していた。

 

”詩は読まれないなんて、そんなことはないよって、ちゃんと詩は届くんだよって、私の詩を読んでくれる人たちが教えてくれました。詩集を出す勇気を、読んでくれる人たちにもらっています。私にとって最高の詩は、読んでくれる人と私との間に存在するもの。読んでもらえて、きっとやっと詩は完成するんです。”(最果タヒ.tumblrより)

 

なんだかグダグダと考えてた事の全てが、この文章に行き着く気がします。読んでくれる人。「いいね」と言ってくれる人。作品を買ってくれる人。それは、自分が悩んでどうこうできる次元の話じゃない。それこそ努力より”運”の世界の話だと思う。それでも、だからこそ努力は必要。公に名乗りたいとか、収入が欲しいとか、そういうこと以前に、「作品を届けてくれてもいいよ」って宛先が無条件にある現代の寛大さに感謝。僕にも僕以外の人にも、”自分の好き”を届けてもいい場所が無限にあるということ。それはとても、考えると楽しいですね。

 

作家で生きている人は、サラリーで生きている人とは”報酬に対しての考え方”が全然違う。僕は詩の面白さ以上に、その”作家としての生き方”に惹かれているのかもしれない。

 

「あの人たちと同じ世界に行ってみたい」

 

今日はとりあえず、この結論に落ち着いた。(完)