遠浅の死海。

文字の海に溺れて死にたい。幸福の国。

静かな時間を愛するすべての人へ。

静かな時間を愛するすべての人へ。

 

Q.「静かである」というのは、あなたにとってどのような状況の時に得られる感覚ですか?

 

・一切の無音空間にいる時?、

・心地よい音だけが聞こえる場所にいる時?、

・静かな人と過ごしている時?、

・薄闇の中ひとりで眠っている時?、

 

人が「静かである」と感じるシチュエーションは様々あると思いますが、今僕が例として挙げたそれらは外因的な要素でしかなく、真に人が「静かである」と感じるのは、”精神が静寂している時”だと思います。心における説明できない現象は、突き詰めていけば全て内因的な問題によって引き起こされているのです。ただ、「精神が静寂している」ことを言葉で他者に説明することはできません。かといって、別に説明する必要もないので何の問題もありません。と、言いたいところですが。その”説明できない精神”を抱えているという状況は、常人にとって心の平静を失いやすい状況でもあります。つまりここに、人が静かな時間を愛する際の”ジレンマ”が発生するのです。人は、根っこの部分では”共感”を求めています。そこは絶対だと言い切ります。なので、たとえ「精神が静寂している状態」であったとしても、そこに共感がなければ心は騒ついてしまうのです。それはすぐに雑音となり、やがて騒音へと自分の中で膨張していきます。だから、精神が静寂していることを他者に説明して共感を得なければ、精神の静寂は完成しないということになります。しかし、そういった説明を思考すること自体、静寂に反する行為であり、元も子もない愚行です。そもそも「精神が静寂している」という感情でなくとも、感情そのものが他者に説明することは非常に難しい物体なのです。説明とは、自分一人で成立するものではないではありません。だからこそ、人は自分でも掴みきれない空気のような何か(つまり感情)を他者に説明するためにコミュニケーション能力を磨き続けるのだと思いますが、それも僕からすれば愚行でしかありません。ほら、これがジレンマです。そして以上の話から、僕が「精神の静寂」について立てた仮説はこうです。どん。

 

流動性を持った”時間”という概念こそが、人間に最も適した精神の静寂をもたらす鍵となり得る】

 

動き続けること、変わり続けること、流れ続けること。そういった、一見静寂とは真逆に位置するような概念や行為が、実は静かな時間を愛する人に必要なものだと僕は思います。とりあえず今は、そう仮定します。ただ、一つだけ注意すべき点があるので補足しておきます。それは、今述べた概念や行為に「特別な事」から得られるエネルギーを使用してはいけないということです。なぜなら「特別な事」、つまり何かしらの非日常的なイベントから得られるエネルギーを原動力としてしまっては、一瞬でそのエネルギーは枯渇し、あっという間に自分を前に進められなくなる。 よって、流動性を失うのです。これは主に僕の経験則から計算された自己中心的理論ではありますが、今この文章を読んでいる人には大方当てはまる話だと思いますのでこのまま進めます。僕がある時期から”ノリ族”や”テンション族”に距離を置いて接しているのは、そういった思想(トラウマ)があるからです。奴らは僕の精神の静寂を奪い、流動性を失わせる邪魔者でしかありません。話を戻しますと、 広義義な意味からいえば、現状を維持し続ける事だけが平穏と安寧につながります。それは僕にとっては間違いない。だからこそ動き、変化し、流れていかなければならないのです。それが僕の理想。精神の静寂を得る最善の方法。ただ、現時点でなんとなく分かってしまう事があります。それは、この理想が実現された世界はきっと脆いという事です。 そして、その予想される脆さは、そのまま自分への刃となって襲ってきます。 個人が讃える理想などは所詮その程度のものでしかなく、逆説的にいえば、人類はもう詰んでいるという話になります。 理想に行き場など無いのです。精神の静寂を求めようが何を求めようが、人はそのまま、その心から解放されることはありません。この世界に真実というものがあるとするなら、それに最も近い概念は”虚無”ではないでしょうか。それはできれば触れたくないもので、触れたところで何か掴めるわけでもありません。僕らは思考する能力を持った時から、この運命に辿り着くように仕組まれていたのでしょう。誰に?誰に?それもまた、虚無の中にしか答えはありません。

 

「静かな時間を愛するすべての人よ」

 

それを知っても尚、誰も自分の思想やジレンマに立ち向かう姿勢を変えようとしないのは、そこにあなた自身の【生命】を感じるからではないだろうか。「結局」と言って仕舞えばすべてに決着がつくことは分かる。でも、そういうことではないのですよね。あなたがあなたで在るための理由と自由は、誰かに定義されてしまうほど柔なものではないですよね。はい、その通りです。僕は今日、ここに行き着きたかったのかもしれません。今、一瞬。心が「静かである」と言っている気がします。そしてほら、また騒つきだした。楽しいですよね、こういう遊びは。あなたも僕も、いつかまた何処かで逢える気がします。その時はどうぞ、この一瞬をまた一緒に目指してみましょう。今日はお付き合いいただきありがとうございました。一応言っておきますが、基本的に僕のブログに根拠や整合性はありませんので悪しからず。

 

さぁ、

それでは、

エネルギーが、

もう、

切れそう、

なので、

ぼちぼち、

寝ますね、

おやすみなさい。

 

どうか皆さん、良い夢を。

 

fin.